(はく)(えい)



 雪のように白く霧の出る日には、決して人気のない場所を歩いてはいけない。霧に呑まれてしまうから…。私の育った鳴兎子(なうね)の町に伝わる、古い言い伝えだった。


 その日は朝から濃い霧が大量に発生して、午後になると、窓の外が真っ白になるほど濃い霧が町中を覆っていた。

 私と卓美(たくみ)は、学校帰りの道を二人きりで歩いていた。路上には車も人も何もなかった。曇った空は白く、霧が空にまで立ち込めているようだった。
 白くないものはただ一つ、卓美の首にしっかりと巻き付いていた真紅のマフラーだけだったような気がする。市内の大学に勤めていて、余り家に居つかない父親が買ってくれたものだと言って、それほど寒くもない時でも卓美はいつもそのマフラーをしていた。

 家々も、ビルも、町がまるごと霧の海に沈んでしまったかのように、白い霧の中で息を潜めているように見えた。霧は、足もとの道路までもうっすらと覆っていた。

 普段見ることのない光景は、不思議で、魅惑的で、そして不気味だった。

 卓美は何か熱心に喋っていた。南極へ学術調査に出ているという父親の話だったような気がするが、あまりよく憶えていない。私はすっかり霧に包まれた辺りの景色を眺めながら、小さい頃に祖母から教わった、あの謎めいた、そして不気味な言い伝えを何度も噛み締めていた。

「わっ、見てよ。亜沙子(あさこ)

 卓美の声に我に返ると、登下校の時にいつも通る狭い道路に、一杯に濃い霧が立ち込めていた。いや、道いっぱいに真っ白な霧があふれているといった方が適切かもしれない。無表情な顔をした灰色のブロック塀に挟まれた道を、ミルクのように濃い霧が白く満たしていた。
 あの光景は今に至るまで忘れられない。いつも歩きなれた道が、真っ白に染まった別の世界へと続いているかのような、期待と不安に満ちた眺め。

「すごい霧だね。踏み込んだら迷っちゃったりして。…あ、御免御免。冗談だってば」

 どうやら、私は知らず知らずの内に不安そうな表情をしていたらしい。それを打ち消そうとするように明るく言うと、卓美はすたすたと歩いて行った。その先には白い霧が、渦巻くように、のたうつようにうねっている。

「…待って!」

 いきなりの大声に、卓美の驚いた顔がこちらを振り向いた。が、私自身も自分の上げた声に驚いていた。

「どうしたの?」

 目を丸くした卓美の問いに、私は返事に詰まった。

 理由なんか何もなかった。ただ、質量を感じさせるほどに濃く、道一杯にあふれる霧を見た時、不意に背筋に冷たいものが走ったのだ。

 馬鹿正直に祖母の語った言い伝えを持ち出す気にはなれず、私は何とか理由を絞り出して並べ立てようとした。

「その…本当に迷うかも知れないし、こんな霧の濃い所、入るのは止めようよ。こんなに霧が濃かったら車にぶつかるかも…」

「何言ってるの。ここ、ずっと一本道だよ。大体こんな狭い道に車が入れる訳ないじゃない」

 そう、軽く言うと、卓美は白い霧の中へと入っていった。紅いマフラーが真っ白な霧の中に映え、すぐに見えなるのを、私はじっと見送った。

「ほら、早くおいでよ」

 霧の中から卓美の声が響いてきた。流れる霧の白の中に紅が一瞬、浮かび上がったような気がした。

 周りを取り巻くこの霧のように、ぼんやりと自分の中に立ち込める不安を振り払って、私は霧の中へと踏みこんでいった。
 進むにつれて濃くなってゆく白の向こうに、周りの景色が完全に消え去ってしまう寸前、どこからか、笛の鳴り響くような鋭い音が聞こえたような気がした。





 霧の中は、真っ白な世界だった。

 いくら霧が濃いとはいっても、所詮は狭い一本道に過ぎないと思っていた。――思わないと、この中に踏みこめなかったのかもしれない。

 だけど今、私の周りにあるのは、見わたす限り真っ白な世界だった。
 すぐ周りでは透きとおっている霧は、遠ざかるにつれて白さを増し、見渡す限りの世界を白で覆い隠していた。周りにある筈の塀も家も、すっかりこの白の中に溶け去ってしまったように。

「亜沙子、何やってるの。こっち」

 白い世界のどこかから、卓美の声が響いてきた。

 声だけだった。白の中をいくら探して見ても、卓美の姿も、マフラーの鮮やかな紅すらも、どこにも見当たらなかった。

 霧の中に踏みこむ前に振り払った筈の不安が、また立ちこめてきた。私は歩みを進めることができないまま、捉え所のない白い視界をあてもなく見渡した。

 ふと、視界の上の方を、何かがかすめたような気がした。
 思わずそちらに視線を走らせると、霧よりさらに白く見える大きい影が、鳥のようなシルエットを閃かせたかと思うと霧の中へと消えていった。

 ――テケリ・リ。

 瞬間、甲高い笛のような声で、それが()いたような気がした。

「亜沙子!こっちだってば」

 白い影を目で追ったまま、霧の中に立ちつくす私を我に返したのは、卓美の声だった。

 いや、我に返ったと言うべきなのだろうか。白い霧の向こうから声がひびいてくる様は、何となく夢の中の出来事のようだった。

「あ、待って」

 前の方向、声のした方――と(おぼ)しい方向に向かって早足で歩き出す。ふと、視線を上にあげた。

 今度ははっきりと見えた。幽霊のような白い影が翼を広げ、大きな鳥のように白い宙を滑ってきた。
 それが頭上を通り過ぎる瞬間、思わず少し首をすくめた。白い影はただ私の頭の上を通り過ぎていった。

 ――テケリ・リ!

 声が霧の中に響き渡った。
 鋭く突きとおすような、そしてどことなく、嘲笑(あざわら)うような声だった。

「ねえ、早く!」

 真っ白な霧の中に、あのマフラーの紅い色がかすかに射したような気がした。
 湧きあがる不安を必死で()き止めながら、私はただひたすら早足で進み続けた。そうしないと、満ち満ちた不安が恐怖へと変わって、私を食い荒してしまいそうだった。
 目指す対象の何一つない、ただ白だけが広がる中へ、私はひたすら進み続けた。ひたすら、どこまでも。

 どこまで進んでも、卓美の姿が、紅い色が白の中に浮かび上がってくる事はなかった。どうやら道が尽きる様子すらないという事が、麻痺した頭の中にうっすらと浮かんできた。

 ――テケリ・リ!

 鳥のような白い影がまた鋭い声をあげて、嘲笑(あざわら)うように身を(ひるがえ)すと、霧の中へと消えていった。

「亜沙子!」

 また卓美の声が、今度は背後から響いてきた。すでに不安は恐怖へと変わっていた。私は怖気(おぞけ)立つように背後を振り向いた。
 やはり白一色の世界へ、怯えるように視線を左右させた。全身に冷たいものがまとわりついていた。

 ずっと、前から声がしていたのに。人が二人、やっと通れる程の狭い一本道なのに。行き違った筈はないのに。

 それなのに、卓美の声は間違いなく背中から響いてきた。

 ――そもそも、「前」とはどっちだったのだろう。

 私は再び「前」を向いた。だが、もうどの方向が「前」だったのかはわからなかった。
 私は白い霧だけが満ちる世界で立ち尽くして、落ち着かない不安な目をきょろきょろと四方へさまよわせた。

「亜沙子ってば。亜沙子!」

 霧の向こうから卓美の声が、今度は「右手」から聞こえてきた。

 間違いなく、そちらの方向には塀がある筈だった。そんなに向きを間違えている筈はなかった。

 ……だが、もう私には、その確信すら持てなかった。

 もう少し右か左に進んでみれば。そこにしっかりと立っている塀に触れれば。

 ――だけど。
 もしそこに塀がなかったら。

 どの方向に進んでも、とらえ所のない真っ白な霧が果てしなく満ちているだけだったら。私と卓美の暮らしていた筈の、目に見える確かな世界が、全てこの白い霧の中に溶け去ってしまっていたら。

 私はその場に立ち尽くしたまま、もう一歩も動く事ができなかった。

 ――テケリ・リ!

 ――テケリ・リ!

 いつの間にか白い空に一杯に、さらに白い影が幾つも舞っていた。

 どれもが白い輝きを帯びながら、(かろ)やかに空を滑っていた。
 空だけではない、白い世界の、見渡す限りの空間を、縦横無尽に飛びまわっていた。幾羽かが私の、すぐ脇をかすめて飛んでいった。

 一つ一つが、嘲笑うような甲高い声を霧の中に、私と卓美を呑みこんだ白い霧の世界に響かせていた。

 ――テケリ・リ! テケリ・リ!

 ――テケリ・リ! テケリ・リ!

「卓美!」

 恐怖、不安、とにかく、自分の中にたれこめ、内側から自分を突きやぶりそうな程に満ちたものを、外へ吐き出すように、私は叫んだ。
 叫びは、白い霧の中に吸い込まれていった。

「卓美!」

 もう一度叫んだ。全てを吐き出すように一杯に叫んだ。

周りを取り巻くこの白い世界を拒むように、目をつぶり、身を屈めて叫んだ――。





 どれほどの時間が過ぎたのか。
私はゆっくり身を起こしながら、恐る恐る目を開いた。


 そこは、あの白い世界ではなかった。

 空はもう白くなかった。飛び回る白い影は欠片もなかった。遥かな空では白い雲が割れて、暖かい日の光が射しこんでいた。あの真っ白な霧が溶けるように崩れ、破れ薄れてゆくところだった。
 私は呆然と光の射しくる空を見つめた。そして、すっかり濡れたアスファルトの上に、ゆっくりと座りこんだ。

「亜沙子…」

 すぐ「後ろ」から卓美の声がした。か細い声だった。だが、間違いなく卓美の声だった。そして間違いなく、すぐ「後ろ」から響いているのだった。

「卓美!」

安堵、そして歓喜と共に、私は振り返った。



 黒く濡れたアスファルトの上に、紅いマフラーだけが濡れそぼって横たわっていた。

 狭い一本道のどちらを向いても、卓美の姿は影も形もなかった。
 日の光の下で、微かに白を帯びた霧が薄れて、消えてゆくだけだった。


 ――テケリ・リ。

 陽射しの中で()けゆく霧から最後に一回、かすかに声が響いたような気がした。




 引用文献:エドガー・アラン・ポオ著/大西尹明訳
           『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』

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