『 混 沌 律 』
〜HUN・DUN・LU〜



 「神がいる。その(すがた)は黄色い(ふくろ)の如く、赤いことは丹の火のよう、六つの足、四つの翼、こんとんとして (かお)も目もないが、この神は歌舞にくわしい。まことこれぞ帝・江である」
                              ―― 『山海経・西山経』





(一)



 神戸の中華街、いわゆる南京町の裏通りに潜み棲むように佇んでいた、その店を訪れた事が始まりだった。

とはいえ、僕が南京町を訪れたのはあの時が始めてではなかった。
休日の度に僕は、白亜の『長安門』をくぐって華美と異国情緒に溢れる街路をぶらついた。
通り一つか二つの向こうには、すぐ日本の都会地が広がっているというのに、至る所に中華風の装飾が映える煌びやかな通りは全くの別 世界だった。街路の両側にはいつも、出店や屋台ぎっしりと立ち並んで油條、割包、包子、饅頭などを売っている。その後ろには多彩さと質を誇る中華料理店が軒を並べている。食材店には黒瓜子(スイカの種)、白瓜子(カボチャの種)、西米(タピオカ)、茶葉各種など、そこらのスーパーでは見る事の出来ない代物が満ち、中国に限らず世界各地から仕入れた陶磁器、人形、衣装、雑貨を商う土産物屋がある。そんな中で、人々は自動車の入り込まない石畳の道を散策し、屋台や店舗を覗き込み、散歩や買い物を気侭に楽しむ。
そこはいかなる時も、年中変わる事のない祭日空間だった。恐らくは、それがこの町が僕を惹きつけていた最大の理由だったのだろう。


南京町は広場から東西南北に伸びる通りが主体で、それ以外の小路には、店が開いている所もあるが表通りと比べればその賑わいの差は歴然としている。
その店があった通りはひときわ寂莫として、陽光の射さない路上には僕以外に人影は皆無だった。大学院の発表も終え、その開放感のままにぶらついていた僕が、どこをどう通ってあの通りの、あの店に出くわしたのかは余り良く覚えていない。
並べてある様々な品物を見るに土産物屋らしかった。しかし、この町の土産物屋は大抵が小奇麗に飾り立ててあり内装も整然としている。この店の雰囲気と来たら、古びて雑然としながらも年月の重みのようなものが漂っており、中国の下町にある老舗だと言われても通りそうだ。
店先には、黒く日焼けした肌の老人が椅子に腰掛け、皺だらけの手で、何と呼ぶのか琵琶に似た楽器を弄っていた。全体に漆が美しく塗られた表面は、夜の空よりも遥かに艶やかで緻密な黒をしていた。銀の部分が目立つ所を見ると、かなり高価なものかも知れない。
弦の上あたりに鮮やかな紅で見慣れない図象が一つ記されている。漢字に似ていないでもないが、どちらかと言うと古代の甲骨文字のように見えた。
老人は、弾いているのか弄っているだけなのかわからない手付きで、時おり弦を弾いている。
音はばらばらでメロディーを構成している訳でもない。だというのに、何故か一定のリズムのように響いてくるのだ。その音色は辺りに染み渡り、体にまで響いてくるようだった。
不思議なその響きに揺られるようにしながら、僕はその傍らを通り過ぎて店内に足を踏み入れた。

音律は薄暗い店の中にも鳴り響き、店内を一杯に満たしているかのようだった。
品物の方も店に相応しく、古びていてどこか謎めいた品が多い。
奇妙な動物の描かれた壷や何処ともしれない幻想的な風景を描いた水墨画。かなり値打ちのあるものではと思える品も多い。
店内の片隅には書架が設えてあり、古びた書物が日に焼けた背中を向けてずらりと並んでいる。僕も大学院で中国古代の文献を研究している身であるからには、一方ならぬ興味を持って、一つ一つを調べてみた。

『捜神記』『抱朴子』『霊飛十二事』『玉房指要』『蝦蟇図経』等々―。たまたまなのか、それともそういう書物を専門に集めているのか、棚にぎっしりと並んでいる大量の書物は、いずれも神仙術、呪術、あるいは怪力乱神について記してあるものだった。これ程まで豊富に揃っているのは見た事がない。かなり夢中になって、僕は書物を一冊一冊取り出しては、書名と内容を確認していった。が、ある一冊の本の表紙を目にした時、その動きが止まった。
相当古びて、頁はすっかり茶褐色になっているのに表紙は濡れたような漆黒をしていた。そして掠れた墨跡で、だがはっきりと記されていた題名は『玄秘経』だった。


『玄秘経』。悠久たる中国の歴史の裏に声を潜めて囁かれるその名を知る者はそう多くはない。
『玄秘経』は、伝説の三皇五帝時代にすら先立つと言う、太古の不気味な伝承や、想像するだに悍ましい修法の実態、奇怪な動植物や鉱物、土地の記録について、膨大かつ精密な知識と考察を記した書であるといわれている。価値に於いては後世の『金枝篇』に劣らず、その恐ろしさに於いて、かの『黄衣の王』に匹敵するとされている。
この魔書が何時頃著されたのかは知られていないが、漢代には既に方士、巫師達の間で恐怖と、ある種の憧憬を以ってその名が囁かれていたと言う。散逸の憂き目にあったこの書を唐代に李玄清が編集、注釈してより、『妙法蟲聲經』や『尸条書』等と共に、清代に至るまで幾度となく禁書とされながらも密やかに、伝説や怪異を撒き散らしながら生き延びてきた。

『玄秘経』は全七巻より成るそうだが、日本では全巻揃えて所持している場所はまず皆無だ。東北は鳴兎子(なうね)鳴兎門(めいともん)大学と、その近くの山村の図書館のそれぞれにうち四巻が、千葉の夜刀浦(やとうら)飯綱(いいつな)大学に五巻があるが、それ以上に纏まったものは知られていない。国会図書館には全巻が揃えてあるという噂があるが、ある人が実際に閲覧を求めた所、そのような書物はないと突っぱねられたそうである。

ここにある書は一巻だけで、『巻之二』と記されていた。直ぐにでも中身を確かめたかったが、本には固く紐が掛けられている。店主らしき老人を振り返ると、彼はやはり椅子に座したまま白煙を吐き出していた。

「あの…この本、『玄秘経』って書いてありますけど、本物なんですか」

自分でも声がかすかに震えているのがわかった。老人は浅黒い顔をけだるそうにこちらに向けると、じっと見据えた。その双眸に何か気圧されるものを見て、僕は息を呑んだ。

「あんた…その本を知っとるんか」

老人の黒ずんだ唇からは関西訛りの日本語が滑らかに流れ出た。中華街とは言え、この町の住人はほとんどが日本語を流暢に操るので別に奇妙な事ではないが。

「ああ、間違いあらへん。それは宋の時代に家刻本、言うたら自費出版で造られたもんや。中身の方は唐の大暦元年に李玄清が編纂し直したもんやが…。分かるか」

老人は滔々と本の由来を語って見せた。鑑定には経験がないので内容の真偽は定かではない。が、僕はほとんど疑問を指し挟む事なく老人の口上に聞き入っていた。伝説の魔書を今この手に持っているという事実に興奮していたのかも知れない。
口上をひとしきり語り終えた老人に、僕は切り出した。

「これ、幾らですか」
「ほう、それ欲しい言うんか。変わった人やな」

呆れたのか感心したのか判然としない態度で老人は値段を口にした。それは書の価値に比べて、拍子抜けするような額だった。

「そ、それだけですか」
「ああ」

湧きあがる喜びをなんと表現したらいいのか。財布を取り出す手ももどかしく、掴み出した数枚の札と引き換えに漆黒の古書を手にした僕に、老人は無表情な貌で言った。
「せやけど、気ぃつけときや。あんたは若いし、物事を知りたいゆう気持ちで一杯になっとるやろうが、世の中には確かに知らん方がええ事もあるんや。
「悠久の昔、大地に最初の鍬が打ち込まれる前の事は、もう誰も覚えとらん。覚えとらん方が安全なんやからな…」

独言に近くなってゆく老人の言葉は余り要領を得なかったが、有頂天になっていた僕は分からないままに何度も肯いた。『玄秘経』を鞄に仕舞いむと、挨拶も早々に出口へと向かった。

老人がまた楽器をいじり始めたのだろう。店を離れる僕の背中に、またあの、まとまりのない不思議な音楽が響いてきた。
音色は背中から全身に響き、手足が震えるような感触すら覚えた。奇妙な気分だった。気のせいか、『玄秘経』をしまった鞄も同じく音色に震えているようだった。
何時の間にか秋の日は早くも落ち、辺りには夕闇が迫っていた。アパートに帰り着くまで、鞄の中の書物の事と、なかなか鳴り止まないあの混沌とした音律だけが僕の頭の中を巡っていた。


(二)


 足の踏み場もない一人暮らしの部屋に入ると、僕は早速、本を鞄から取り出して封を開き、頁を捲ってみた。古びた褐色の頁からは古書独特の匂いが漂ってきた。
どの頁にも古風な漢字がびっしりと書き連ねられ、時折図や絵も加えられている。文面をは古風な漢字で記された古風な中国語の文章で、解読するには少し手間が掛かりそうだ。ただ『女咼』『玄牝』『崑央』『混沌氏』という言葉が頻出する所を見ると、間違いなく太古の神々や神話について言及してあるらしい。
図は多くが怪物や動物、異人種についての図説のようだが、一つとしてまともな生物の姿はない。人頭の蛇、鳥とも土竜ともつかない怪物、魚のような肌の人間、等々であり、特に気味が悪かったのは、高峰の頂から下界を睥睨する、樹木とも人とも蛙ともつかない巨大な単眼の怪物だった。絵はかなり様式化されたものだったが、それだけに異形の怪物の姿は気味が悪かった。こんな怪物が登場する神話ないし伝承が実在するのだろうか。今までに聞いた事すらない。
そんな感想を抱きつ頁を繰るうち奇怪な絵の一つに、ふと目が止まった。

「それ」は他の怪物とは、全く懸け離れた姿を持っていた。
まず「これ」が生き物なのかどうかすら不明だ。他の怪物はいかな異形とは言っても、胴体に頭が生え、顔があり、四肢がある事に変わりはない。が、「これ」はその基本を見事に覆している。
「それ」には頭が無かった。頭のあるべき胴体の前部は丸い空白があるばかりだ。胴体に直接、目や口が付いている訳でもない。胴体は丸くて寸胴の、のっぺらぼうの塊に過ぎなかった。
胴体―と呼んでいいのかどうかも分からないが―の背にあたる部分からは鳥に似た翼が四枚生じ、腹にあたる部分からは、獣に似た六本の脚が生えていた。
余りに奇妙なその姿に、しかし僕は見覚えがあった。

部屋の片隅に立つ、一杯に本が詰めこまれた本棚から一冊の本を抜き出す。『山海経』というその書物を捲ると目的のものが見つかった。そこには、あの古代の書に描かれている"もの"そっくりの図が描かれていた。この本によると、この"もの"は名を『帝江』という。
『山海経』はやはり成立年代不明、著者不明の古書で、中原を中心とした世界各地の動植物、鉱物、異人種や神々、伝説について書き記してある書物だ。知名度は低いが、数年前のオカルトブームの際には結構有名になっている。
『山海経』には『帝江』の事は僅かにしか記されていないが、西方にある天山なる山に棲む神で歌舞に詳しいという。どれほど詳しいのか、またそれにまつわるエピソードがあるのかと言うような事は一切記されていない。その漠然とした得体が知れず捉え所のない様は、この『神』に相応しいような気もする。
ひょっとすると、既存の資料に記されていない記述が『玄秘経』の中に見付けられるかも知れない。微かな期待を抱きながら、僕は文章を読み始めたが、結果は失望に終わった。酷く文字が掠れている上に、大昔の漢文は幾つか文法的に不明瞭な箇所があるため、非常に漠然とした意味合いしか取る事が出来ない。

漢字の羅列を目で舐め回す内に、文の終わった後に細い線で奇妙な印が記されているのに気づいた。見慣れない印だったがどこかで見た覚えがあった。しばらく眺めて、それがあの老人の楽器についていた印と酷似している事に気づいた。
奇妙な印だった。由来が全く不明というだけでない。印そのものの構造が妙に複雑で、どういう造りになっているのか見当もつかないのだ。如何なる者がこんな印を創り出したのか。
印に目を凝らしながら、右手の指で印を描こうと宙をなぞってみる。指は思いの外滑らかに宙を動き、妙な印を忠実に描いた。その動きは何となくリズミカルですらある。指を高く宙にあげ、空中に印を描いてみる。拍子を取っているかのように指は調子良く動く。
拍子にしてはまとまりがなく特徴の掴めない、奇妙なリズムだなと考えて、あの老人の楽器が奏でていたリズムによく似ている事に気付いた。偶然なのだろうか。それとも彼も『玄秘経』からこのリズムを見つけ出し、それを奏でていたのだろうか。
『帝江』は歌舞に詳しいという。『帝江』の音律と言うのはきっとこんな調子に違いない。あの奇妙な姿に似てまとまりがなく、捉えどころのない、渾沌としたのっぺらぼうの音律。

奇妙なリズムを描きながら、かなりの間ぼうっとしていたに違いない。ふと窓を見る窓の外にはすっかり闇が降りている。遥か遠くに神戸の繁華街、三ノ宮の灯が闇の中に鮮やかに浮かんでいるのが辛うじて見て取れた。
夕食でも摂ろうかと立ち上がって、ふと酷い眠気を感じた。ここしばらくの間レポートに掛かりっきりになっていたので無理もない。今日はもう寝てしまおうかと思いながら、余りの眠さについ、そのまま床の上に横になった。
閉じようとした目に、開きっぱなしにした『玄秘経』の頁が映った。そう言えば、あの文章が何を警告しているのかは分からないままだった。明日にでも調べてみる事にしよう。
瞼と共に僕の意識が閉ざされる直前、母親が幼児に歌いかける子守歌のように、どこからか歌が響いてくるような気がした。
その歌の旋律は、あのリズムによく似ていた。


(三)


 夜闇に閉ざされた人気のない冷たい道路を、僕は歩いていた。
周囲の至る所よりあの音律が響いてくる。まるで目に見えない奏者が一斉に音曲を奏でているようだ。
僕の身体は勝手に、その音律に乗るように動いていた。音の揺れるままに脚を動かし、音の流れる方に脚を向ける。闇の中を、僕は音律に導かれながら未知の目的地に向かって進んでいた。音に乗って歩きながらも、僕はこれは夢なのだと考えていた。周りの音も辺りの街並みも妙に現実感がなかった。しかし、周りの景色、幅広い道路の傍らに豪勢な有様の、巨大な石の建築物が目立つこの街並みにはどこか見覚えがある。行く手に大きな道路が横たわっているのに突き当たった時、ようやくこの街並みに思い当たった。ここは神戸の街中、元町通とメリケン通りの交差点だ。いつも南京町に行く時に通る順路だ。
神戸の街中なら一晩中明かりが灯っているにも関わらず、今、周囲には燈火は皆無だ。まるで、街全体が停電になったとでも言うかのように真っ暗だった。
道路を走る車も、通行人の気配も微塵もない。多分、全ては今、周りで鳴り響いているこの奇妙な音のせいだ。何故かそう思った。

車の気配すらない静まり返った道路の彼方、ずっと左方に紅い瓦屋根を持つ中華風の建物が夜目にも鮮やかに建っており、その傍らには白い門が闇の中に聳えている。長安門だ。
音律は僕をその中へと招いているらしく、僕の脚は夜の河のような道路を渡り、門の中へと進んでいった。

やはり闇に包まれる南京町の石畳の上を、音に導かれながら僕は進んだ。闇のせいか、この音のせいか、いつもの華美な風は影を潜め、あたかも古代の城邑に迷い込んだかのような古色蒼然たる空気が随所を覆っている。中国の怪異譚の舞台となりそうな暗い夜の町を、不可思議な音に導かれ僕は歩く。音は無人の街路をしばらく進ませ、やがて、店と店の狭間に隠れたような暗い小路を曲がらせた。
奇妙だった。この街はそれほどの広さはない筈なのに、狭く暗い街路は曲がりながらどこまでも延々と続く。音律はいよいよ高らかに鳴り響きながら、僕を暗い路へと駆り立てる。唐突に思い出した。この道は確か、あの店に行き着いた時に通った道だった。
その時、目の前の曲がり角から目を灼く様に眩い光が射してきた。鮮やかな朱色の光は、生物の脈動のように揺れ動いていた。いや、脈動と言うよりはその律動は、やはり周囲に鳴り響く音の、捉えどころのない旋律に似ていた。
続いて、朱の光を放つそのものが僕の前に姿を現したのだった。


巨大でふわふわとした、黄色い袋のようなものだった。半ば宙に浮かび上がった全身は絶えずゆらゆらと揺らめき、それに合わせるように全体の輪郭が伸び縮みする。その調子は周りを満たしている音律と、完全に重なり合っていた。膨れ上がった胴体の上部からは四枚の羽が生え、音律を奏でるように羽ばたく。下部から生えている幾つもの脚は音律を整えるように上下する。
天山の神、帝江そのものの姿だった。漆黒の闇の中、黄色の身体から朱色の光と謎めいた音律を放つ帝江はゆっくりと舞うように羽ばたいていた。

あのリズムだ。僕はようやく気付いた。
あのリズムが帝江を呼び寄せたのだ。あのリズムに乗って書に記された古の印を描いた事が、この太古の神の気を引き付けたのだ。
帝江はこの世に顕現し、太古の音律を再現した者―僕を己の元へと呼び寄せた。何か計り知れない運命へと導くべく…。

不意に、たゆとう様に流れていた音律が怒涛のごとく急なものになった。それ合わせて弾けるかの様に僕の身体は、目の前で揺らめく朱とも黄ともつかないのっぺらぼうの塊の中へと飛び込んでいた。朱色の光と高まる音律に包まれながら、僕の意識は途絶えた。


意識が戻った時、音律は再びゆっくりとしたものに戻っていた。
どうやら音律に揺られるようにして宙を漂っているようだった。辺りの景色を確認する。どうやら夜らしく、上空には雲一つない夜空に無数の星が散らばっている。まるで宇宙空間がそのまま空に映っている様に、星の輝きも夜の暗闇も冴え渡っていた。
星明かりに照らされて、遥か下方に大地が広がっていた。果てしなく広がる大地の上を、巨大な濁流が蕩々と流れている。明るい中で見たらさぞかし雄大であろうその光景には見覚えがあった。黄河だ。
数千年に渡って最古の文明の根幹であり続けた大河の辺には、しかし人の営みの灯りは見えなかった。暗い無人の台地に幾ら目を凝らしても、家屋の一つすら目にする事は出来なかった。

昏い、始原の広大な世界に、音律は高らかに響き渡る。この音律は太古の世界のものだからだ。人類が天と地の間に弱々しい一歩を踏み出す、その遥か以前にすら古く、原初の時の刻まれた瞬間にすら先立つ、そんな古の音律…。
大地の至る所に、太古の世界の住人達が蠢いていた。人間の卑小な文明が大地を黴の様に覆う以前の姿で、古の存在が純粋な闇黒の中に跳梁跋扈していた。

全ての山岳に魑魅(ちみ)が、全ての沼澤に魍魎(もうりょう)がひしめき、生贄を求めて闇に彷徨する鬼神達が醜悪な肢体を震わせ、音律に乗って踊り狂うのが見えた。彼等の哄笑は夜闇の中に低く響き渡った。
空も河も森も大地も、太古よりの神霊に満ちていた。邪悪なる窮奇(きゅうき)、暴乱なる檮兀(とうこつ)が爪牙を閃かせて暗夜に蠢動した。遥か遠方よりは水淵に潜む共工(きょうこう)の咆哮が響き、血肉を求める蚩尤(しゆう)の呪詛が地を這っていた。

怪力乱神が天地に乱舞する中、音律は更に天に響き地に染みて、その深奥に蠢動するものの姿を顕にした。其処には至高の天堂も安穏たる冥府もなく、人の知らざる無窮無限の神々が、始原の世の(まま)に醜悪怪異な姿を晒しているだけだった。
人の知らざる高峰の上で、昼夜と四季を体現する燭陰(しょくいん)が空虚な眼を漂わせていた。天上地下の双方に在る太歳(たいさい)が無数の目をぎらつかせて天地を渡っていた。暗黒の虚空の何処(いずこ)かより、万物を貪る饕餮(とうてつ)の狂おしい呻き声が殷々と響いてきた。
耐え難い冒涜的な光景は天の上、地の底まで延々と広がっていた。

そして乾坤の共に尽きし場に《混沌》が蟠居し、うねっていた。宇宙の始原の姿であり、本来の姿であり、いずれ宇宙がその中へと溶けゆく窮極の存在であった。盤古開天によって引き裂かれし万物の主であった。知性も意志も持たない盲目白痴の神であった。《混沌》は侮蔑と憎悪を以って、天地の間に存在する全てを、己の膿んだ傷口に湧いた蛆蟲どもを、盲いた瞳で睥睨していた。
《混沌》の全身からは常に音律が湧き出ていた。《混沌》の貌無き顕現であり、分身である帝江の奏でる音律と寸分違わない旋律だった。宇宙は混沌の旋律に乗って動き、混沌の旋律に翻弄され、混沌の旋律に導かれて《混沌》に帰する宿命だった。

僕はいつしか混沌の音律に包まれ、《混沌》の中へと引き寄せられつつあった。混沌の音律は僕の五体に浸透し、僕は《混沌》の望むままになる事しかできなかった。僕を凝視する、盲いた《混沌》の瞳を覗き込んだ時、僕は不可避の宿命を悟った。魅せられたように《混沌》の瞳を覗いたまま、僕は《混沌》の渦巻く体の中へと飲み込まれていった。





 幾日も姿を現さない学生の身を案じて、彼の元を訪れた友人達と、部屋の鍵を開いたアパートの管理人は室内を一瞥するなり悲鳴を上げた。
書物の散乱する部屋の中央には、微動だにしない彼の肉体が横臥していた。土気色の肌色と、部屋に充満する死臭から、彼が屍体となっている事は明らかだった。

だが、戦慄すべきはそのような事ではなかった。彼の屍体からは顔が消え去っていた。顔のあるべき部分には卵殻の様な空白が、虚ろな表面を晒しているだけだった。





 引用文献:訳  『山海経』

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