『霧』




 その日も、少年はいつものように自転車をこいで湖のほとりに来た。湖もいつものように、黒い水面に茫洋と白い霧を漂わせていた。湖のほとりのこの公園は、住宅街の外れにあるせいか、いつも人気(ひとけ) がなかった。

 あるいは人気(ひとけ)がないのは、ほとんど日の射し込まない湖面を(とばり)のように霧が覆っている、この風景のせいかもしれなかった。この眺めは、人の(あふ)れ返る世界からかけ離れた、夢幻や仙境に近しい世界のものなのだった。少なくとも、少年はそう考えていた。

 湖には鳴兎子(なうね)湖、公園は霧辺(きりべ)公園という名前があるのだが、少年の頭にはなかった。また、そんな名前が必要だと思った事もなかった。

 湖岸に面した広場の隅に自転車を止めて、少年は湖の方に向かった。水際には柵がたてられているが、一箇所だけ、柵の上部が壊れて低くなっている場所がある。少年はその前に立つと、静まり返った水の上を霧が漂う有様を眺め始めた。
 まるで、その中に何かを見出そうとするかのように。



 少年が学校へ行かなくなってから既に数ヶ月が過ぎていた。

 市内有数の進学校で、スポーツや社会活動の面でも目覚しい成果を上げている学校。生徒のほとんどが勉強や部活動に活発に打ち込んでいる校風に、彼はどうしても馴染む事が出来なかった。

 彼はただ、幾つかの物語や夜の夢の中、あるいは夢想に身を委ねている時に垣間見る美しい夢幻の世界に憧れ、せめて夢想の中でその影に触れる事を望んでいる、それが全てだった。

 級友達はそんな彼から自然と距離を置き、たまに彼の語るものに触れると困惑と嘲笑の混じった笑みを浮かべるだけだった。

 ここには自分の求めるものも、自分と関わりを持つものもないと知った時、少年は毎朝家を出た後に学校へと向かう事を、自然とやめてしまった。



 少年は湖の辺にじっと立ち、ゆったりとした霧の流れをただひたすら見つめていた。やがて、霧は彼の目の前で少しずつその様子を変え始めた。ゆるやかな空気の流れに乗って気まぐれに流れていた霧は、いつしか何かの意図が働いているかのように秘めやかな意味の存在を思わせるような動きを見せ始めていた。
 瞳にかすかな期待と歓喜、そして憧憬を浮かべた少年は柵の手摺を握る手に僅かに力を篭め、いざなうように舞い踊る霧を眺め続けた。



 少年は、学校へ行くのをやめていた事を母親に告げてはいなかった。

家に父親はいなかった。少年がまだ幼い頃に母親を捨ててどこかへ去ってしまったそうだが、母親はその事に関しては滅多に話そうとはしなかった。また、彼も別に知りたいとも思わなかった。

 夫が姿を消してから、母親は息子を学習に専念させる事に熱意を傾けだした。小学校に入ると同時に週三日制の塾に入れ、ピアノや英会話の教室にも通わせた。

 母親は息子にしょっちゅう、将来のビジョンを熱心に語って聞かせたが、彼はそれを聞き流していた。母親が夫に去られた埋め合わせに自分を巻き込んでいるに過ぎない事を、彼は何となく感じていた。

だからと言って母親の持ち込んでくる課題をおろそかにする事は決してできなかった。彼がテレビを見たり、本を眺めたりするのを見るたびに、母親は眉を吊り上げて彼を勉強机へと追い立てるのだった。

 机に向かっても針のような緊張は続いた。少しでも行き詰まると母親はいくらもしないうちに表情を険しくし始め、刺々しく彼を責める声は程なくして、常軌を逸した怒鳴り声に変わる。母からきつい叱責を浴びせかけられると、幼い彼は抗弁するなど考えつきもせず、ただただ青ざめてうつむいているだけだった。

 そんな少年の安らぎは、学校が終わってから塾までのわずかな時間を図書室で過ごしたり、道端にある書店で幻想の世界に触れる事だけだった。そこには緊張と忙しなさに埋め尽くされた現実の日々からは想像もつかないような驚異と感動が満ち満ちていた。

 中学校に入ってからは母親も絶えず彼を監視する事は少なくなったし、図書館に行って勉強してくるといえばもう疑われる事はなかった。

 ひどくあっさりと監視を放棄する母親に、何か悲しいものを感じながらも、彼はさまざまな内容の書物が所狭しと並ぶ開架室で、自分を取り巻く乾き切った現実から解き放たれて、貪るように幻想の世界へのめりこんだ。



 白い霧が見渡す限りの黒い水面の上に満ちた時、ついに少年の求めていたものが現れ始めた。ゆらゆらとたゆたう霧の中に、徐々にある景色が見え始めたのだった。
 霧が晴れて湖の向こう岸にある風景が見えているのではなかった。霧の中に幻影のように現れている光景は、鉛色の雲の重く立ち込める空の下、荒涼たる砂の荒野がどこまでも広がっている光景だった。

 風に吹かれてさらさらと流れる砂に埋もれて、きれいな円柱状をした黒い石が所々零れた姿を晒していた。明らかに人の手の加えられたその石は、永きに渡った己の生涯と己の目にしてきたものを語り掛けようとしているかのように見えた。寂莫としながらもどこか魂を惹きつけてやまないその光景に少年は心を奮わせた。

 果てしなく広がる砂の上を吹き渡る風が強まったかと思うと、砂漠の光景は、まるで霧が吹き散らされるように崩れ去り、新たな光景が目の前に現れた。


 そこは一面に広がる暗い森だった。巨大な木々が繁らせた枝葉が空を覆い、森閑とした森を陰と暗がりで満たしていた。ごつごつした木々の枝や幹に生えた茸は、迷い人を導くために妖精が灯したランプのように、所々でぼんやりと燐光を放っている。ひときわ太い樹の根本で揺れる光をかすめて、小さな茶色の影が走っていった。

『魔法の森』。不気味さと背中合わせの不思議な美しさを持つこの暗い森を、彼女はそう呼んでいた。そして、彼女が始めて少年を(いざな)ったのも、やはりこの地だった。



 少年がその少女に始めて会ったのは、学校へ行くのを止めてから半月ほど経った、ある日のことだった。

 その日は、一年中湖を覆う霧が岸からこちらへとさ迷い出て、湖にほど近い家々までもが、うっすらと白い色に取り巻かれていた。また図書館へでも向かおうかと漠然と考えていた少年は、不意に、湖に溢れる霧を見たくなって自転車を町の南へと向けた。

 その日の公園には、いつもにもまして人影がなく、霧の薄く漂う湖畔の公園にただ一人でいると、まるで別世界へと迷い込んでしまったような思いに駆られた。そんな空想は少年の心を浮き立たせた。

 最初に少女の姿を目にした時は軽い落胆を感じた。今の素晴らしい雰囲気が乱されたような気がしたのだ。
 だが、彼女が不意にこちらを振り向いた時にその気は消え失せた。他者を前にした時にいつも受ける疎外感を、彼女と目があった時には微塵も感じなかった。むしろ、今まで味わった事のない安堵感を覚えたのだ。

 彼女もそうだったのかは分からないが、彼女は吸い込まれそうな黒い瞳でこちらを見つめ、やがてにっこりと微笑んだ。

 彼女は少年と同じぐらいの年格好で、学校は違うものの、やはり制服を身に付けていた。少年と同じように学校に行くのをやめてしまったのかも知れなかったが、少年がそれを彼女に尋ねる事はついになかった。尋ねる気も起こらなかった。
 傍らに寄った少年に、彼女は湖面を覆い尽くさんばかりに溢れた霧のうねる様を指さした。

 もうすぐ霧の中に映し出されてくる。
 不思議なもの、妖しいもの、美しいものが。私が、そしてたぶん、貴方も求めてやまないものが……。

 そのような事を告げられて、半信半疑ながらも少年は彼女と同じように、白くけぶる霧の中をじっと見つめ続けた。
 やがて、霧が揺らぎ、二人の目の前にあの暗い森が幻想的な姿を現したのだった。



 今、少年の目の前には、少女があの時のままの姿でいるのだった。

 彼女の背後には目の醒めるように鮮やかな緑に染まった水田が広がり、その向こうには、褐色をした素朴な茅葺きの家々が点々とうずくまっている。遥か彼方には、蒼い空の固まったような薄青い山影が、かすんだ輪郭をおぼろげに浮き上がらせていた。
 安らぎと静けさが支配する景色の最前で、彼女は青い草の上に腰を下ろし、あの日と同じ、深みを湛えた黒い瞳でこちらを見ているのだった。

 ――久しぶり。

 そう言っているかのように微笑む少女を、少年は悲しげに見上げた。

 意識することなく少年は右手を手摺から離し、少女の方へ、ゆっくりと伸ばした。それが全く意味のない行為であるとはわかっていても。
 どれほど手を伸ばしても、その手が彼女に届くことは決してありえないとわかっていても。



 少女と会った次の日から、少年は毎朝公園の、あの場所に行き、少女と会った。二人並んで湖のほとりに立ち、毎日のように霧の中に映る夢幻の地の光景を眺め続けた。
 雨の日でも変わることなく、霧は景色を映していた。二人も、傘をさしている他は何一ついつもと変わることなく、霧の中の景色を見つめた。

 しかし、時には霧の少ない日もあり、霧が充分に出ていても何も見えない日も稀にあった。そんな日には二人で公園や街中をぶらぶらと歩き回ったり、図書館へ行って本を読み漁った。

 そして、霧の中に見えた諸々の地について語り合い、イメージを膨らませ、あるいは図書館にある様々な物語や伝説の中から抜き出して、馴染み深くなった景色に一つ一つ名前をつけていった。セレナリア、蓮華狗(れんかく)、バー・ウル・ヤン、漂霧樹海(ひょうむじゅかい)、インクアノク、ユ=サル…。

 そして、いつも最後は必ず望みの話―二人共に焦がれて止まないあの世界を訪れ、その中を共に歩むという望みについて、時間が過ぎるのすら忘れて語り合う事になるのだった。いつまでも、いつまでも。

 ある日、少年がいつものように公園へ行ってみると、少女の姿はそこにはなかった。次の日も、その次の日も。

 一人で霧を眺める気にもなれず、町をあてどもなくぶらついている内に、湖のほとりの公園で、女の子が湖に落ちたという噂を耳にした。それ以上聞いてしまう前に、急いでその場から離れた。

 翌日、息を切らせながら公園へ行ってみると、少女と一緒に霧を眺めていたあの場所に、一束の花が置かれているのを目にした。その時、少年は不意に悟ったのだった。
 彼女はもう、この世界にはいない。「向こう」へ行ってしまったのだと。



 手を伸ばしても、やはりそれは何をももたらさなかった。緑の水田も、青い山並も、そして少女もすぐそこに見えているのに、手を伸ばすと、いつも同じように、決して届く事はないのだった。

 少女が彼の前から姿を消してから、霧の向こうに、初めて少女の姿を見出した時は、届けとばかりに必死で手を伸ばしたものだった。だがその時も、今と同じように、手が少女に届く事はなかった。ほんの数回を数えるばかりの僅かな機会に巡り合う度に試みても、少年が霧の中の世界と少女に辿り着く事は一度としてないのだった。

 それにも関わらず、今、少年は霧の中へと、少女のいる場所へと向かって手を延ばし続けた。少女はそれに応えるように黒い瞳で少年をじっと見つめていた。が、やがて、少し哀しそうに、首を横に振った。

 それが合図となったかのように、急に霧の中に広がっている風景が薄れ出した。
 田園も、山々も全てが色あせ、白い霧の中へと急速に溶けこんでゆく。同じ光景を幾度となく、少年は目にしていた。それはこの束の間の夢幻の世界への旅の終わりであった。陰翳の高原も、平穏と安寧に満ちた邑も、いつもこうして薄れ、形を失い、やがて全てが消え去って、何事もなかったかのような白い霧だけがその後に立ちこめているのだった。
 少年の目の前で全ての景色が崩れさり、少女の姿も少しずつ薄れはじめた。

 無言の別れを告げるかのように、悲し気な瞳をこちらに向けて立ちつくす少女に、少年は最後に一度だけ、心の中で呼びかけた。

 君と同じように、その世界へ辿りつくことはできないのか。
 君と一緒に、その世界を歩むことはないのか。

 消え去ろうとする影を見つめる彼の視線と、いまだに薄れずにこちらを見つめる少女の目が合った。ふと、少年は、夜空のような少女の瞳の奥に彼女の言葉を見たように思った。

 ――今は、まだその時じゃない。

 ――だけど、もう、すぐに―――。

 それが最後だった。二つの瞳も一瞬で白い霧の中に飲みこまれ、消えた。


 気がつくと、少年はいつしか壊れた柵を乗り越え、湖の上へと乗り出そうとしていたのだった。
 うなだれながら両足を地面に降ろし、辺りを見回した。いつのまにか日は暮れ果てて、闇が霧に変わって人気のない公園を満たそうとしていた。
寂寥と静寂が支配する広場で一人、哀しげな吐息を密かに漏らすと、ぽつんと立っている自転車の方へと歩いていった。



 すっかり闇に沈んだ町を抜けて、母親と住んでいるアパートに帰りついた時から、ある種の予兆のようなものを感じていた。
 暗いアパートの階段を抜け、部屋のドアを開けた途端、それが正しかったことが分かった。

 母親が玄関口に立ち、凄い目つきでこちらを睨みつけたかと思うと、その口からどなり声が飛び出した。
 怒鳴るというより、ただわめき散らしているだけに近かったが、言葉の内容は辛うじて読みとれた。どうやら欠席を重ねていた事が学校から伝えられたらしい。今までばれなかったのがむしろ不思議なぐらいだったが、もはやだいぶ前から母親は、自分の希望に沿った断定を交えながら成績を尋ねるだけになっていたので、それほど不思議ではないのかもしれなかった。

 激情の塊と化した母親の前で、少年はなんとかして何かを訴えようとした。幼い頃のように、理解を示されずに激情にさらされたままで終わるという結果にはしたくはなかった。
 だが、少年が口を開こうとすると母親は一層、声をはり上げて怒鳴った。まるで、少年の言うことを怒鳴り声でふさごうというかのようだった。
 いや。本当に、少年の言うことを聞く気など、最初から微塵もなかったのだ。

 わめき声に近かったものが本格的なわめき声になり、ついには意味すら取れなくなった時、少年は戸口に向かって走り出していた。

 薄暗い廊下に走り出て、真っ直ぐに階段へ向かった時も、母親はただただ声を張り上げ続けていた。



 まばらな街灯が冷たい光を投げかける夜の道を、ペダルをこいであてどもなく少年は走っていた。
 これからどうしたらいいのかなど全くわからなかった。ただ、自分とこの世界を繋ぐものがすべて完全に切れたということは、何となく理解していた。
 いや、ひょっとしたらまだ一つだけ、残っていたかもしれなかった。
 少年は自転車の向きを南に変えると、夜風を背に受けて走り出した。


 公園の入り口に着いた時、少年は目を見張った。

 いつもは湖の上にわだかまっている白い霧が、公園の入り口にまで流れて来ていたのだった。公園の地面も、そこかしこに生えている木々も、彼方に黒々と広がっている筈の広大な湖も、全ておおい隠して霧の立ちこめる様は、まるで彼を出迎えにきたかのようだった。

 躊躇する事なく少年は自転車を漕いで霧の中へと進んでいった。
 あたかも霧の向こうのあの景色の延長のように不思議な眺めがそこに現れていた。
 夜だというのに、公園の街灯のせいか、霧はうっすらと光を帯びて、帳のように周囲の景色を覆い、あたりのベンチや遊具が奇妙な影へと姿を変えて、霧の中にぼうっと現れては消えていった。
 夢の中のような景色のせいか、それとも別の理由によるものか、少年の心には、いつしか不思議な期待が浮かんでいた。

 その期待は、真っ白なほどに濃くなった霧の塊を突き抜けた時に明らかなものとなった。

 霧の壁を通りぬけた時、そこはもう、寂しい夜の公園でもなければ、夜闇(よやみ)色の黒い水をたたえた湖でもなかった。
 そこは、緑もあざやかな昼下がりの草原で、彼方には青くかすんだ山々のもと、美しい水田と素朴な茅葺き屋根が望めた。

 驚いたらいいのか、それとも喜びにひたるべきなのか決めかねて、自転車のハンドルを握って立ち止まった少年は、ふいに何かを感じて振り向いた。

 そこには彼女が立っていた。過ぎ去った日々に、毎日のように会っていたままの姿で、あの現実の世界のものではない風景を背後に、少年の目の前に立っていた。
 少年は、少しおずおずと手を差し出した。少女の手がさっと伸びて、その手を握りしめた。

 二人は、やがてどちらからともなく笑みを交わした。

 そして、ふたりは草原の彼方に悠然とたたずむ田園の方へ、共にゆっくりと歩いていった。



 鳴兎子(なうね)市内に濃霧注意報が発令された翌朝、霧辺(きりべ)公園の湿った地面を、自転車のタイヤの跡が横切っているのが発見された。

 跡は湖のほとり、転落防止の柵が壊れているあたりで消えており、湖に沈みかけていた定期入れが見つかったことから、溺死事故として大きな騒ぎとなった。

 もともと人気(ひとけ)のなかった公園はそれ以来、ますます訪れる人が少なくなった。それでも足を踏み入れた僅かな人々の一部の口から 奇妙な噂が流れ始めた。
 湖の上に霧が多く流れる時刻に湖のほとりに立つと、立ち込める白い霧の中に一瞬なにかとても美しいもの、不気味なもの、あるいは素晴らしいものが見えたような気分に襲われる事があるというのだ。

 さらに一部の人の話はより奇妙な話をつけ加えていた。そういう時に目を閉じて耳を澄ましてみると、かすかに笑い声らしきものが聞こえてくる事があるというものだった。
 それは少女の声のように聞こえる時もあれば、少年の声のように聞こえる時もあるという。どちらにしても、その幸福に満ちた声はこの世のものでなく、どこか遠くかけ離れた世界からひびいてくるもののようだと語る者もいた。

 そんな、人々の些細(ささい)な噂ややり取りに関わる事なく、湖のほとりの広場の向こう、黒々として静まり返った湖の上には、白い霧が茫洋と 立ちこめ、あたかも何かを秘め隠しているかのようにゆっくりと流れるのだった。


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