のどかなる青垣山の彼方には狂へる暗翳の痴れ踊るらむ
――猫臥峠にて夢月舜二の詠める
物心ついた時から、僕の側には常に、緑に覆われて高く聳える山々があった。
僕の部屋からは、いつでも鳴兎子の北に広がる山々を眺める事が出来た。
市の北外れにあり、さほど長からぬ距離を歩けば山に踏み込んでしまうような場所にある家の中でも北向きの僕の部屋の窓の外には、いつも鳴兎子の山々が街並みを圧してそそり立っていた。
手前には、麓に住宅の波が押し寄せている妻神山があり、左の方を見れば、常に麓を霧に取り巻かれる神霧山が聳えている。それらの山々の彼方には一きわ高い峰が聳え立っている。この一帯で一番高い山、審神山だ。
朝に目覚めれば、眩しい朝日の光に照らし出される山々が見えたし、夕方に部屋に戻ると、沈みゆく夕日の放つ橙色の光に山々が黒く沈んでいるのが見えた。空が曇っている日には山々は灰色の空を背景にして黒々とうずくまっている様に見えた。
そんな光景を目にするたびに、僕の心にはいつも必ず、ある一つの思いがつよく、つよく浮かぶのだった。
――あの山々の彼方には一体何があるのだろう。
山地を越えた所には田畑と町が広がっており、鳴兎子の町から神霧山の西にあるトンネルをくぐって鉄道が伸びている。そう分かっていても左右に延々と果てしなく伸びる山々の連なりを眺めていると、時々その向こうに未知の世界が広がっているような気すらしてくるのだった。僕は実際にあの山々の頂上に立ち、彼方の光景を自分の目で眺めて見たかった。その思いは常に僕の心の中に居座り続け、とうとうある時、それを実行に移させたのだった。
それは、夏のある良く晴れた休日の朝だった。長年の密やかな願望を叶えるべく、僕は山々の方向へと足を向けたのだった。
山裾の住宅街というのは奇妙な場所だ。すぐ近くに山が聳えている事を除けば、都会とそう変わらない佇まいから数十分歩いただけで、すぐに木々や藪の生い茂る林の中へと踏み込んでしまう。
道が上り坂になってくる頃から、周りには少し風変わりな古びた建物や、町中では見られないような大きな家が立ち並ぶようになる。周囲の風景には徐々に樹木が増え、確実に山の領域へと近づいている事を感じさせる。
やがて、郊外の寂れた町並みも尽き、アスファルトの舗装も途切れて地面が剥き出しになっている所に辿り着いた。土色の路の先には木々が生い茂り、落ち葉や砂利の散らばる小道を暗い影で覆っている。葉の茂った枝の作り出す陰に足を踏み入れて、いよいよ僕は山の領域へと入り込んだ。
さほど高くもなく、ちゃんと山道もついている山でも、たった一人きりで歩くというのは、爽快感と同時にどこか不気味なものを帯びている。
特にこの山々は登山に来ようという人も少なく、たまに近くの農家の人々が山菜を取りに入るぐらいのものである。その彼等にしてもこの山中に長居しようとはせず早々に帰ってしまうそうだ。
この辺りには天狗や山神の言い伝えが古くから伝わっており、年配者の中には未だにそれを信じているものも少なくないのだという。
それを聞いた時は、僕も例に漏れず、21世紀に入ったこの世の中に、と笑い飛ばしたものだったが、今こうして静まりかえった緑の山中を一人進んでると、そうした言い伝えが現代に至るまでいくばくかの信憑性を保って語り継がれているのも、さほど無理ないことのように思えてくる。
そもそも、この山々の全てに残らず人の手が入り、光を当てられたという事はないだろう。この寂しい山々の奥には、いまだ人の知らないなにかが残り、じっと潜んでいるのではないだろうか―。ついそんな馬鹿げた考えさえ、信憑性を伴って浮かんできてしまう。
突然、枝のざわざわと揺れる音が、静まり返っていた山道に大きく響き渡り、不気味な方向に想像を働かせていた僕はぞっとした。
頭上を見上げると、上方に高く伸びた木々の枝が風で大きく揺れている。その向こうに覗いている空は、いつの間にかどんよりと曇っていた。青く澄んでいた空が、不気味にうねる鉛色の雲に埋め尽くされていた。
漠然とした不安が明確な恐怖と焦りに変わったのは、道に迷ったらしいと気づいた頃だった。どうやらいつの間にか山道からそれて、獣道にでも迷いこんでいたらしい。
そう気づいた時には慌てて、藪の中に埋もれそうに細い道を引き返し始めた。曇った空はますます暗く沈み、風は徐々に激しさを増してゆく。いつ雨が降りだしてもおかしくない空模様だった。
だが、見覚えのある風景はいつまでたっても見えてこない。それどころか、上りだった道を引き返してきた筈だというのに、道は下りから平坦になり、上り坂になりそうな気配さえ見せ始めていた。
もう一度引き返そうかとも考えたが、枝が道の中にまで張り出し、生い茂った薮が足を阻むこの道を歩いてきた苦労を思い返してその考えを打ち消した。この道を再び何十分も引き返すのは並大抵の事ではない。それに、引き換えしたつもりが、またしても別の得体の知れない道へ迷い込むのではないかという不安さえあった。
もはや焦りと不安で頭が一杯になり、この状況を打開する考えは出てきそうになかった。僕は、せめてしばらく腰を落ち着けられるような場所、出来る事ならこれから降り出すかも知れない雨をしのげるような場所にたどり着くことを願って、どこへ通じるとも知れない道を、ただ前へ前へと歩き続けた。
どのぐらい歩いただろう。道はついに本格的な上り坂へと変わってしまい、しかも進むにつれて傾斜を増し続けていた。ひたすら登り続けた足はすでに棒になり、服には木の葉や小枝がまとわりついている。靴も靴下もズボンの裾も土ぼこりで薄茶色を帯びていた。
そんな状態だったから、目の前のひときわ急な坂の上に広い空き地があるらしいと見えた時は、嬉しさのあまり走り出してしまった。全身を疲れが襲っていたが、あそこにたどり着きさえすれば一息つけるという期待感が足を急がせたのだった。
緑に支配された薄暗い世界を抜け、曇り空からにせよ光がさす広々とした空間にようやく出た時は心底ほっとした。そこは緑に覆われた山腹に浮かんだ、かなりの広さの平らな空き地だった。
僕は手頃な石の上に腰をおろし、リュックから水筒を取り出して渇いた喉をうるおしながらあたりを見回した。
さっきまでの木々と藪の生い茂った森とはあまりに様相を異にした場所だった。ところどころに生えている草を除けば、何メートルにも渡って岩や石の転がるむき出しの地面が続いている。あちこちで大きな岩が高く突き出しており、まるで岩の柱が立ち並んでいるようにも見えた。
今まで登ってきた方向には果てしない曇り空の下、遥か遠くの方に黒く沈んだ山が連なり、手前には霧に覆われた大きな湖が一杯に広がっているのが見えた。あれは鳴兎子湖に違いない。どうやらここは審神山の、それもずいぶん高い位置にあるようだった。
上りの方向の側ではこの空き地と同じように荒涼とした斜面が上方へと伸びている。だが、岩の転がるむき出しの斜面もすぐに途切れ、向こう側へと落ち込んでいるようだった。
という事は、ここはこの山々の尾根にあたる所なのだろうか。ならばあの上まで登れば山の向こう側が見渡せる事になるだろう。そう考えると、僕はくたびれた足で立ち上がり、斜面に足をかけた。こんな半ば遭難のような状況で、と思うだろうが、この山登りのそもそもの目的、山頂に立って山々の向こう側を目にするという事を止める気にはなれなかった。
それが出来そうな場所がすぐそこにある上に、ここでじっとしていてもどうにもなるものでもない。それに、向こう側にちゃんとした山道が見つけられるかも知れない。そう考えて自分を奮い立たせながら、険しい地面をゆっくりと登っていった。
二度も足を滑らせかけながらも、ようやく斜面の頂上近くまでたどり着いた。あと一歩も踏み出せば、いよいよ向こう側の光景が見渡せる。何とはなしに感慨のようなものを抱きながら、僕は最後の一歩を踏み出した。そして向こう側を目にしたのだった。
向こう側の光景――。
今にいたるまで、僕は山々の彼方に広がる光景を色々と思い描いていたものだった。はるか北方まで連なる山々。玩具箱をひっくり返したように広がる市街。鮮やかな緑に彩られた田園地帯。
だが、今目にしている光景はそのいずれとも似ても似つかないものだった。いや、そこにありえる筈のない光景だった。
そこには、荒涼とした灰色の大地がどこまでも果てしなく広がっていた。灰色の砂利と岩が視界の限りに横たわっている。今は夏の筈だというのに、所々が雪が積もったかのように白くなっていた。
そして空。空はずっと前から暗かったが、荒野の上に広がっている曇り空の暗さは異様だった。雲というよりも、得体の知れない有害な瘴気が空いっぱいに立ち込めているかのようだった。
この光景が目に入った瞬間、これは何か目の錯覚に違いないと僕は思った。それ以外に。こんな景色が見える理由はなかった。その筈だった。
しかし、いかに目を凝らしても、目の前のこの景色は揺らぐ様子すらなかった。
視界を超えて広がる、この奇怪な荒野の彼方には、ここからでも空を突き抜けんばかりに高く切り立って見える山々が幾重にも連なり、重なり合い、荒野の背後に巡らされた城壁のようにどこまでも聳え立っていた。
不自然なまでに黒々とした山肌は、山頂のあたりだけは雪が積もったように白くなっている。僕がたった今登ってきた鳴兎子の山々とは……いや、日本にあるような山とは全くかけ離れた様子をしている。チベットかヒマラヤにでもありそうな光景だった。
だが、これほどまでに不吉な印象を与える山は世界の何処にもないだろう。肉食獣の牙を思わせる尖った山頂、敵意すら感じさせ
る程に険しく切り立った山肌、何とも言えず不穏な空気を漂わせる山容。それだけでは説明できない、何か酷く危険で、酷く恐ろ
しいものの気配がこの奇怪な山々全体から漂っていた。僕は、この不気味ながらも壮大な光景に圧倒されたように、身動きも出来
ずにただ立ちすくんでいた。
山々の稜線に淡い光が浮かび始めた時も、僕は呆然と立ち尽くしているだけだった。その光が何なのか、何を意味するものなの
か、そういう事に考えが及ぶ事もなかった。暗い灰色の景色の中に、山容をぼうっと浮かび上がらせるようにほのかに輝く菫色
の光、炎が揺らめくように明滅する妖しい光に、ただじっと見入っていた。
何かを伝えようとする信号のように、何かを仄めかそうとする合図のように、徐々に明るさを増しながら意味ありげな明滅を繰返
すその光は、不気味でありながらも妙に魅惑的なものを秘めていた。
不意に、菫色の光を帯びた漆黒の山の頂の一つから、細糸のような光が一筋、暗灰色の空に向けてほとばしった。
それが合図となったかのように一つ、また一つと、次々と峰々の頂から光の筋が放たれ、暗い空に消えて行く。突然に起ったこの
奇怪な現象に驚いた僕は、光の消えていった暗雲の立ち込める空を見上げた。そして、そこにいたものを、この灰色の世界の恐怖
を目にしたのだった。
それは、暗い鉛色の雲を背景に浮かんでいた。
空全体を覆い尽くすかと見まごう程に巨大なそれは一見、黒い雲のように見えた。人か、蟲か、別の何かのシルエットを歪めたよ
うなおぼろげな輪郭を暗い空一杯に広げて遥か高みに浮かんでいるそれは、怖いぐらいに膨れ上がった巨大な雲の塊のように見え
た。が、そうではない事は、山々から立ち上った光がぴんと張られた糸のように一直線に閃き、黒々とした塊の中に吸い込まれて
行った時に分かった。
その瞬間、まるで獣が首をもたげるかのように、塊の一部がぐうっと動いたのだ。
続いて、巨大な塊の全体が痙攣するかのようにぶるぶると震えた。いや、身を震わせたのだった。こいつは生き物のように意志を
もって動いているのではないかと感じたその時、そいつの一部が獲物を認めた猛禽の嘴を思わせる凄まじさで、遥か上空からいき
なり地上へと伸びてきた。
そいつがどうやら真っすぐ僕の方を目指しているらしいと知った時、悲鳴を上げるよりも早く、僕は後ろを向いて走り出した。
斜面を走り降りたのか、それとも滑り落ちたのか覚えていないが、全身を強く打ったのを覚えているので無事に斜面を降りられな
かったのは確かだろう。それにもかまわず、僕は恐怖と焦りにかられるままに、向こうに広がっている薄暗い森を一心に目指して
不毛の広場を駆け抜けた。息が切れるのか、身体が痛むのかそれすら感じていなかった。ようやく広場を横切り、木々の作り出す
影の中に駆け込んだ時、僕は一瞬足を止め、後ろを振り返った。
あの恐ろしい景色は影も形もなく消え去っていた。
暗い空も、不気味な大山脈も、あの不吉な荒野も、尾根の向こうに隠れたのかそれとも消え去ったのか、影も形も見えなかった。
そして、あの得体の知れないものが追ってくる様子も全くなかった。
あれは一体なんだったのだろう。僕は幻を見ていたのだろうか。
そう考えてみても、今も目にまざまざと焼き付いているあの光景、そしてあのものの姿は、とても「幻」で済ませられるようなも
のとは思えなかった。しかし今、荒れて陰気とはいえ正常の範疇に入るこの景色の中には、あの光景に属するものの片鱗すら見あ
たらないのもまた確かだった。
ややあって、鉛色の雲に覆われた空と荒れた斜面にぼんやりと目を向けていた僕は、山頂の方に向けて足を踏み出した。
あの奇怪な光景はやはり幻だったと判断したとか、あれが幻だったのかどうか確かめてみようとしたとか、そう明確な考えを抱く
には頭がくたびれていた。だが、恐らく無意識の内ではそんな事を考えていたのだろうと思う。とにかく僕は再び、荒れ果てた空
き地へと踏み込んだ。
その途端、尾根の向こうからあいつがなだれ込んで来た。
堤防に打ち寄せる怒涛のように高く弾けたかと思うと、写真で見たことのある火砕流のように、信じられないほどに膨れあがった灰色の巨大な塊が、醜悪な表面を蠢かせながら、山の斜面を流れ降りて来た。津波が押しよせるように、こちら目がけて向かってきた。
すぐ近くにまで迫ったそいつは、目も鼻もないどころか、生命を持っているとはとても思えない、煙の塊のようなやつだった。そいつが、巨大な全身を引きずって、意志ある生き物のようにまっすぐ僕を目がけて滑ってくる光景の恐ろしさ!
逃げよう、と考える間すらなかった。覚えているのは、藪を掻き分けながら、落ち葉で足を滑らしそうになりながら、必死に山道を駆け下りた事だけだ。
後ろからは枝の折れる音、木が倒れているらしい大きな音、そして何ともいえない不気味な、巨大な何かが滑る音がすぐそこまで迫ってきていた――。
意識を取り戻したのは、鳴兎子市街の外れにある療養所のベッドの上だった。
医者の話によると、山菜取りに来ていた近くの農夫が山道に倒れている僕を見つけたらしい。全身打撲傷と擦り傷だらけでしかも片足を捻挫していたそうだ。確かに全身はずきずきと痛んでいた。
医者には、山道に迷ってしまって必死で歩きまわっている内に意識が途切れたと言っておいた。医者は、あの山地は奥深くまで踏
み込んだ人間も少ないし、何があるかよ
く分からない山だからね、と言って納得したようだった。確かにその通りだ。あの山には想像を絶する何かがあるのだろう。
あの恐ろしい体験の後、一回だけ山の向こう側に行った事がある。電車に乗ってトンネルを抜け、山地の北側まで行った時、そこにはあの悪夢の世界は影もなく、平凡だが穏やかな農村風景が広がっているだけだった。
なら、あの世界は何だったのだろうか。僕は山中をさまよう内に人間の知る世界とは異なる世界を垣間見てしまったのだろうか。
あの、正体も名も知れないものはその世界から踏み出して、町の傍らに聳える山、僕がいつも目にしていた山へとなだれ込んできた。
あれは一回きりの偶然なのだろうか。考えられないぐらい奇跡的な偶然が起こって、山々の向こうに異なる世界が一瞬だけ、繋がってしまったのだろうか。
あのものが山を越え、山腹を滑り落ち、町へと入り込んでくる事はないのだろうか。いや、いつか山の向こう側の田畑も町も鉄道も消え去り、代わりに荒れ果てた灰色の平原とその彼方に聳える不吉な大山脈が姿を現す事はないのだろうか。
僕の不安と恐怖に、山々は何の答えも示さない。ただ街並みを圧倒して聳えているばかりだ。
この地に住む限り、僕の側には常に、何かを秘め隠して高く聳える山々がある。
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