『暗行録』


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(一)


 鬼帰里(ききり)西切(にしきり)庄地頭、深江忠広(ふかえただひろ)は、腹心と頼む数騎の郎党を引き連れ、朝霧の湧き立つ鳴兎子(なうね)の湖岸を、南岸の四尾留(しおどめ)村に向かって一路進んでいた。


時は戦国。麻の如くに乱れ果てし天下の大名は何れも神経を尖らせ、富国強兵に心を砕いている。峻険たる峰々に四方を囲まれ、幾百年もの時を隠れ里の如くに過ごして来た、霧深き鳴兎子(なうね)の地とても、その例外では無かった。古の朝権の蝦夷征討以来、この地を治めて来た鳴兎子(なうね)一族も、鳴兎子(なうね)鬼帰里(ききり)魍魎塚(もうりょうづか)の国人・地頭達も、険しい峰々に囲まれる盆地の随所に散らばる村落を、貪欲に、切迫に傘下に組み入れんと目を光らせている。

記録の伝うる所によれば、鳴兎子(なうね)の地に皇軍(みいくさ)が足を踏み入れてより八百年余、広漠たる湖を臨む四尾留(しおどめ)の村が年貢を強いられる事は数うる程しか無かったという。
近隣の村落の者が声を潜めて囁く所によれば、四尾留(しおどめ)の民は、神を祀り仏を拝する事を知らず、天孫降臨以前の妖しき禍津神を崇め、聞くだに悍ましき淫祀に耽溺しているという。更に、霧の晴れぬ湖に忌わしい犠牲を捧げている、妖魔の類が村を闊歩している等、奇怪な風評は、鳴兎子(なうね)湖の霧と同様に、晴れる事は決して無かった。其等の呪わしい風聞が、深い山々の奥に閉ざされた、鳴兎子(なうね)の者の迷妄に暗む心理を脅かし、此の辺陬の寒村が兵馬に踏み躙られる事を避けて来たものであろう。何たる愚かな事よと、未だ年若く、乱世の現実に揉まれ育った忠広は嘲笑って(はばか)らなかった。
さすればこそ彼は、蛾雁(ぎがん)城の、己と同様に強硬を唱える侍達を後ろ楯に、四尾留(しおどめ)に帰順と貢納を強いるべく手の者を率いて向かったのである。


忠弘が四尾留(しおどめ)の村に、並々ならぬ敵意と執念を抱く理由は、鳴兎子(なうね)氏への忠義でも無く、若さや、地頭としての野望のみでも無かった。
忠広の父、忠昭は、忠広の未だ歳満たぬ時に、今の忠広と同様の形で四尾留村に赴いたのである。用向きも今回と同様、帰順と貢納の要求であった。

が、忠昭が還る事はそれきり無かった。

再び、今度は一人きり丸腰同然で使わした使者は、忠昭が村に辿り着いてすらおらぬという、四尾留の村長の言を持ち帰った。
郎党達は、忠昭一行がに赴く途上で湖より湧く濃い霧に捲かれ、誤って水に落ちたものと結論を下した。然し、忠広を始め、忠昭の冷静さと鋭い勘、類稀な馬術の腕を知る者は決して其れを信じはしなかった。忠昭一行は悪辣な四尾留(しおどめ)の村民の卑劣な罠に掛かって闇に葬られたのだ。其の思いと怨恨を胸に育った忠広は、敵意も顕に四尾留(しおどめ)へと繰り出したのであった。


広漠なる鳴兎子(なうね)湖は、何時もの通り白い霧に包まれていた。早朝に(やかた)を発ったものの、濃い霧と曇った空は蒼天を覆い隠し、今が何時刻なのやら見当もつかぬ有様だった。
四尾留(しおどめ)へと馬を進めるにつれ、霧は一艘濃く成り勝るばかりであり、(あたか)四尾留(しおどめ)の村民の奉ずる魔神が、己が眷属を護らんと行く手を遮るかの様であった。淀んだ風に流されて霧の帳は揺らめき、其の影に妖魔の跳梁するが如き奇怪な様相を呈していた。

「一体、後如何(いか)程往けば良いのか。城を発ってよりかなりの道程を来た筈じゃぞ」

忠広はすぐ傍ら、狭霧の中に控える筈の家来の一人に問い掛けた。

貴自納(きじな)の淵を過ぎたのが一刻程前と記憶して御座(ござ)います。(しか)らば、そろそろ着く頃では、と存じまするが」

応える忠臣の声は、霧の遥か彼方より響いて来るかの様であった。
不意に、疑念が忠広の胸に湧き上がった。今の声は余りに遠かった。何時の間にか一行は、一寸先をも見渡す事適わぬ霧の中で離散して仕舞ったのでは無かろうか。

「皆、何処(いずこ)におるか! 集まれい!」

忠広の声に応える声は一つとして返っては来なかった。恐れと焦燥の入り混じった叫びは、白い沈黙の霧の海へと虚しく吸い込まれて行くだけであった。忠広が恐怖に呑まれ、愛馬を元来た路へと向わせようとした時。

霧の中から、殷々と絶叫が聞こえて来た。
只の叫びではない。其れは想像を絶する程の恐怖と絶望に染まった、断末魔の叫びだった。
そして、紛れもなく、忠広の信頼篤き部下の一人の声であった。

驚愕を覚える間もなく、霧の彼方から一つ、又一つと悲鳴が聞こえて来た。
白い霧の結界の中で離散した一行は、一人々々と、何か得体の知れぬ事態に遭遇しているのだ。路を失う、湖に落ちる恐れも念頭に無く、悲鳴の響いた方角の一つへと馬を駆らんとしたその時、幾度となく野山や戦場を共に駆けた若駒が、前触れも無く、霧に濡れた草の上に転倒した。
一も二も無く倒れ付した忠広は、何事かと倒れた愛馬に目を遣る。

霧の帳に閉ざされる前に忠広が見たものとは、黒い汚泥の如き粘液に全身を覆われ、息すら出来ずのた打ち回る愛馬の姿であった。
粘液は独りでに膨れ、伸び、馬の体を締め付けていた。其れは粘液が、冒涜的な迄の異形でありながら、命を持つ事を示すものであった。
必死で体勢を整えた忠広は、腰の太刀を抜き放つと、愛馬を救わんと霧の帳の中へ駆け入ろうとした。


()されい。もう間に合わぬ」

背後より響き来る奇怪な声に、忠広は思わず脚を竦ませた。鉄の管でも通して無理に人の声に似たものを響かせんとするかの様な音であった。

何奴(なにやつ)ぞ!」

忠広が振り向いた先には、薄霧に取り巻かれて、一つの人影が浮んでいた。頭から足先までを黒布に包み、(ぼう)、とした体で立ち尽している。

四尾留(しおどめ)の一味か!」

頭に血を上らせ、手にした太刀を一閃させる。狙い違わず霧中にも煌く白刃は、身動ぎ一つだにせぬ黒い影を、一気に袈裟懸けに斬り通した。

「無駄な事は止められたが良い。斯様(かよう)なものは儂には通じぬ」

くぐもった、声とも呼べぬ様な声で奇怪な影は云った。

「化物()、何を抜かす――」

叫びつつ翻した刃が錆びた様に赤く崩れ、歪んでいる様を目にするや、忠広は其の場に固まった。斬る事も叶わぬその奇怪な影。この世の者では有り得ない。

「お分かりか、深江忠広殿。儂も、此の霧も、四尾留(しおどめ)の村も、そなたの知るを遥かに越えた領域じゃ。―否。鳴兎子の地、そのものが葦原の中津國の何処(いずこ)にも似通わぬ呪詛と妖魅の地。死よりもなお悪しき破滅に舞われぬ内に、早々に退かれるが宜しかろう」

忠広は黒衣の人物の言葉に異を挟む気は微塵も無かった。想像を絶する怪奇に見舞われたばかりの忠広は、黒衣の怪人が自分の名を知る事も最早不思議と思わず、周りを取り巻く霧から立ち昇る冷気と妖気に骨身を侵されるが如くに打ち震えていた。
然し、例え邪妖の領域に脚を踏み入れて居ても、郎党を滅し愛馬を奪われながら、父の仇たる四尾留の者に、おめおめと後ろを見せる気だけは更々無かった。怖れに冷え切った身を奮い立たせんと太刀の柄をしかと握り締め、刃がすっかり腐り落ちて居る事に気付いた。

「退かれる気は無い様だな」

黒衣の人物の錆びた声には、感服と落胆の双方が、若干ながら感じ取れた。

「天晴と誉めたい所ではあるが、余りに愚昧決意といわざるを得ぬ。そなたの往く路は魔神のしろしめす暗黒の道程にして、将に地獄の行程。()しんば無時に辿り終えたとしても、其処には堕地獄より恐ろしき破滅が顎を開いて居るに他ならぬ……」
黒衣の人物は、呟く様に、謡う様に(うそぶ)くと、黒衣の人物は隠された顔を翻し、僅かに薄まった白霧の彼方へ、悠然と歩み去って行く。

「待て――!」

忠広の叫びが届いた風もなく、黒衣の人物は、未だ一寸先も見渡せぬ霧の中を颯々と歩いてゆく。僅かに逡巡した忠広は、刃の腐り落ちた太刀の柄を草叢の中に投げ棄て、霧の彼方に消えゆく黒い影を追った。



路は険しく、霧は深い。ともすれば簡単に見失いそうになる黒い影を、忠広は只管(ひたすら)に追い続けた。周りを取り巻く霧は奇怪に渦巻き、その様たるや、巨大な白魔が愚かなる獲物を呑まんと、喉を蠢かせるが如くであった。

真っ白な霧の中に、幽鬼じみた灰色の影が茫と幾つも浮んで来たのは直ぐの事だった。

湖の真水独特の臭いの染付いた萱葺きの粗末な家々が、或る所では粗末さを感じさせる程に道を大きく開けて居るかと思えば、遥か遠方では互いに絡み合うかの様に身を寄せ合い、その様が、霧の中に揺れる輪郭を益々、曖昧模糊とさせた。(さなが)ら、一つの村が丸ごと亡霊として霧の中に立ち現れ、煙の如き姿を躍らせているかの様であった。

幻影の如き家々の間に、灰色の影が幾つも彷徨していた。
目を凝らせばその姿が明瞭にはなるものの、一つとしてまともな姿の者無く、冥界の亡者そのものよりも呪わしからんと思われた。
(いず)れも襤褸同然の衣に身を包み、酩酊した様な足取りで闊歩する。死魚の如き面相の老人、猿の様な毛むくじゃらの若者、鳥を思わせる鷲鼻を尖らせた男がのし歩き、膨れ上がった体を、戸口に一杯に鎮座させる皺だらけの老婆の傍らで、胸元をはだけた色の白い女が、けらけらと笑い呆けていた。

此等の村民が妖怪の如くに悍ましいのは、その醜悪なる形相の所作に非ず、満ちる白霧の如くにどろりと濁った彼等の目に、一つとして正気のものが無いが故であった。
村全体が濃霧の如き狂気と頽廃に包まれていると悟った時、忠広の肌には云い様の無い戦慄が走った。

間違いは無かった。此の悍ましい村落こそは正しく、四尾留(しおどめ)の村に他ならなかった。

聞きしに勝る汚穢と頽廃に、思わず総毛だった。まさしく魔境としか呼び様のない、この忌わしい里に食指を伸ばす等、確かに賢明な事とは言えまい。村が幾百年もの間、兵馬に蹂躙される事なく、醜悪な姿をこの地に晒し続けて来た事も、それを思えば納得が行かぬでもなかった。

然し、蝦夷征討以来、数百年も隷属を免れて来たのは其れだけであろうか。先程の霧中の怪異といい、此の地には何か、更に悍ましいものが潜んで居る様な気がして成らぬ。
―父は此の地で一体何の様な妖異と遭われて還られなかったのであろうか。長年、脳裏に抱いて来た疑問は、当の地を目にした今こそ、水を注がれたかの如くに膨れ上がり、脈打ち始めた。

ふと、気が付いて前方に目を凝らす。黒衣の人物は、輪郭すら定かならざるその身を不気味に揺らし、怪異の巷を平然と歩みながら霧の中へ隠れようとしていた。慌てて忠広は、妖気漂う中を、不気味な村民を押し分けつつ、黒い影を追って走った。

霧満ちる揺らめく道の先に、突如としてはっきりと黒いものが現れた。

それは、一見の古い堂であった。霧に黒く湿った木柱も、饐えた臭いを放つ萱葺きの屋根も、途方も無い古さを醸し出していた。黒衣の人物は、朽ちかけた扉を開くと、異様な臭気満ちる暗がりの中へと足を進めて行った。余りの臭気と濃密な闇に逡巡したものの、忠広は脚を緩める事無く、その後に続いた。


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