(三)
扉の中は、北国鳴兎子の冬を幾度と無く過ごした忠広でさえ耐え難い程の冷気に充ち充ちた隧道であった。
余りの寒さに肌に痛みが走る。凍り附かぬばかりの足許に、堪らず歩調を早めた忠広は、脚を滑らせて凍て附く地の上に臥す破目となった。床にも、壁にも、天井にも、一面に分厚い氷が張って居た。
身を切る床の冷たさに、起き上がらんとした忠広は、氷の壁の中に何かが居るのに気が附いた。前方に立つ黒衣の人物がゆっくりと灯りを翳す。
灯火に照らされて氷壁の中に浮ぶは、蛇の如くに長い首を附けた、巨大な蜥蜴の如き怪物であった。長い頚を鞭の如くに撓らせた姿の侭、氷の中で永劫に静止して居た。
黒衣の人物は水晶の如き床を、苦も無く進んで行く。忠広は滑り転びつ必死に灯りを追った。程無くして全身の感覚は、寒さに麻痺し切った。
氷壁の中には様々な怪物達が囚われて居た。背に帆の様なものを立たせた巨大な蜥蜴、鋭い牙を剥き出した犬とも蜥蜴とも附かぬ怪物、人よりも巨大な山椒魚―。
「嘗て世界は幾度も氷雪に包まれたそうな。然し、此の獣共は其の犠牲では無い」
相も変わらず氷の黒衣の人物は、奇怪な声で呟く様に語った。
「そろそろお分かりであろう。永い天地の変遷の間には、人智の到底及ばぬ怪異・神威があるもの。古には究極の神々が天より降り魔界より到来し、地の上を闊歩して居ったのよ。此の獣達は其れら蕃神共の犠牲の、極々一部じゃ」
ふと、氷の中の怪物達の間を、飛び回る影が在る事に忠広は気付いた。氷の中を、水中の魚の如く泳ぎ回る怪異に忠広は目を見張った。
水母の如き姿をした、煙の様な幽鬼共が、触手をくねらせ、氷の中を泳ぎ回っていた。其奴等は怪物達の骸を玩弄するかの様に触手で撫で回しては、奇怪な文句を鳥の如くに囀って居た。
らうあう うがう いあ あ゙うぁろす!
らうあう うがう いあ あ゙うぁろす!
恐怖を覚えようにも、最早手足のみならず精神も寒さに凍え果てて居た。
忠広は棒の如く凍て付いた手足を動かし、朦朧とした視界で傀儡の如き虚ろな動きで灯りを追い続けた。
何程の時が過ぎたか等、とうに脳裏より消え去って居た。ともあれ、忠広が我に返った時には、氷の穴も、幽閉の怪物達も、氷の中を泳ぎ回る幽鬼共も無かった。己が座り込んで居るのは砂の上であり、辺りには広漠な空間が広がって居る事に忠広は気付いた。
風に乗って嗅ぎ慣れぬ匂いが漂って来る事に気付いた。其方を向くと、ひたひたと砂地を濡らして、黒い水が何処迄も湛えられて居た。其の果ては闇の彼方に消え、冥界に迄、水が続いて居るのではなかろうかと思われた。
―此処は噂に聞く賽の河原では無かろうか。
忠広の凍て付いた頭には其の様な考えが浮んだ。
――ならば、自分はあの氷穴の中で凍え死んだのか。
其処迄考えて、漸く傍らに黒衣の人物が、灯火を手に控えている事に、忠広は気付いた。
「気が附かれたか」
黒衣の人物は無感動に云った。
「愈々旅も終わりじゃ。此の海を渡ればそなたは行程の往く果て、四尾留の地の底の更に底に潜む秘密を知る事になろう」
「海だと。此の水が海と。地底に海があると申すのか」
「左様。鳴兎子は山国故そなたは知るまいが、此の匂いこそ潮の香り。先程の地底の國と同様、太古の海の一部が地底に囚われ、今に至る迄其の姿を留めたものである」
斯く語ると、黒衣の人物は水辺へと歩み寄った。其処には如何にして持ち来たものか、粗雑な木の小舟が揺られていた。
黒衣の人物は灯りを船の舳先に掛けると、三途の川の渡し守の如く棹を手に取った。
忠広は、逡巡もせずに舟へと乗り込んだ。父の仇、村の制圧、其の様な当初の目的は、最早、彼の頭には微塵も残っては居なかった。只、引かれる家畜の如く粛然と、冥府に赴く亡者の如くに力の入らぬ足を動かし、黒い波に揺られる舟に乗り込んだ。
否、恐らく、自分が誘われるが侭に斯様な地獄路を踏破して来たのは、其の先にあるものを見届けたいという、ただ其れだけの為だったのだと、彼は気付いてしまっていたのだろう。此の路の行く果てに蟠る、何か途方も無く恐ろしいもの、悍ましいものに畏れつ惹かれて、闇黒の路を辿って来たのであった。然り。斯様な呪わしい欲望に踊らされてでもなければ、魑魅魍魎の世界を巡り来る事等、考えすらしなかったに相違は在るまい。
黒衣の人物が棹を動かした。小舟は冥府の浜を離れ、果ての見えざる茫洋とした暗黒の大海へと乗り出した。
顔を覆う潮の香りに咽ながら忠広は波に揺られ続けた。
灯火に照らし出される海面は黒く、只、灯りを照り返して黒い波が煌くばかりである。地底の海は地上の海と同様の深さがあるのか。さすれば此の海の底は如何程に深いものか、と考えて、麻痺した忠広の心にも、幽かな慄きが浮かんだ。
不意に、波が奇怪な動きを見せたかと思うと、鬼の様な顔が牙を剥き出して浮かんだ。鎧の如き巨大な鱗に覆われた異相に、忠広は又しても妖怪の類が現れたかと身構えた。
「太古の魚じゃ。原初の海を泳ぎ回って居った往古の鱗類じゃ」
黒衣の人物の説明を聞いても尚、光に寄せられて浮んで来るは巨大な無鱗の魚や鎧の様な殻に覆われた魚、目も口も無い魚とも何とも附かぬもの等、何れ劣らぬ怪物揃いであった。
先程の氷穴の獣達といい、斯様な異形の生物が闊歩していた往古の世は如何な景観であったかと、想像を巡らせずにはいられなかった。其の時代には此れ迄に目にした妖怪や邪神も地を闊歩していた筈と思えば、人の世の如何に安寧で、かつ、儚いものよと思わずには居られない。
ふと、黒衣の人物が棹を動かして居ない事に忠広は気附いた。舟は得体の知れぬ魔力に動かされて、何処とも知れぬ、旅の終点へと導かれて行くのであった。
波に揺られ続けた所為か、時間の感覚が多少戻って来た様であった。
如何程、舟に乗っていたかと考え、未だ着かぬかと訊ねようと考えた時、舟の動きが止まった。舟が軟泥の中に踏込んだ様な振動が伝わって来た。
「着いた」
黒衣の人物が、そう漏らした。
「舟の下に在る。覗かれるが良い」
身を乗り出して覗き込んだ下には、なにかが波打ち蠢いていた。
一瞬、海面が只広がって居るだけと思った忠広は、次の瞬間に凍り附いた。
海水では無かった。とは言え、他のなにでも有り得なかった。
泥に似て泥に非ず、岩に似て岩に非ず、樹に似て樹に非ず。風にも焔にも虚空にも見えながら異なるそれは、無数の命を持ちながら同時に命無きものであった。獣であり草木であり魚であり魔であり神であり、そして人でありながら、命無き泥濘に等しかった。
其れが見渡す限り、闇の中、原初の海の真中に浮んで居た。否、其れは絶望的に異なるものでありながら、闇とも海とも舟とも、忠広とも区別を附ける事は不可能であった。
忠広は目を覆って崩れ落ちた。人なる身には、此れ以上見るには到底耐え得なかった。其れは、宇宙にあるものの何れでも無く、同時に総てを内に含んでいた。
「原初の混沌じゃ」
黒衣の人物の発する声が、遥か遠くに聞こえた。
「此の始原のもの、未だ此の深遠の奥深くに斯く蹲踞し、未だ四尾留の村、否、鳴兎子の凡てに、呪詛と魔力を放ち続けて居るのよ。此れこそが凡ての怪異の源。四尾留の地底に地上への路を持つ、大地の最奥の。此れこそが宇宙を、神々を、総ての生物を産み出したもの。此れこそが―」
黒衣の人物の語りは、悍ましい毒の様に忠広の耳に刺さり、脳髄を掻き乱した。混乱と嫌悪、狂乱に苛まれ、最早、耐えられなくなった忠弘は、黒衣の人物に掴み掛った。
黒衣の人物は抵抗すらせず、全身を覆う黒布が落ちた。
灯りに照らされる、其の正体を見た途端、忠広の正気は最早果てた。
両眼は光を失い、ただ、眼前に立つものの姿を映した。
辛うじて人の形を取り、其の場に立って居るものは、水にして風にして光にして砂にして闇にして苔にして人にして、何れにも非ざるもの―舟の下に蠢く混沌、其の物であった。
今迄、黒衣に身を隠し、忠広の前に立って言葉を交わして居たものは、人がましい姿をとった、原初の混沌の片鱗に他ならなかった。
だが、大本と唯一異なるのは、混沌に非ざる部分を唯一つのみ、備えている事であった。それの頂上、頭の部分にあるものは、胴を形作る混沌と区別する事は能わぬものの、紛れも無く本物の、人間の首であった。
忠広の知る顔であった。幼い頃の記憶にしかと焼き附いて居る顔、呪われし四尾留の村へと向った侭に還らず、今の今迄相対する事の無かった顔。
父、忠昭の顔であった。
「忠広よ。此れこそが四尾留の秘密に近付いたものの末路、混沌の案内者の姿よ」
忠昭の哀しげな声が、霧消した忠広の心に届いたか否か、其れを見分ける術は無かった。
「魂も意志も智慧も持たぬ混沌は、召し使う為に己が身の片鱗を切り離し、悍ましい事に智慧ある生物の首を植え付けるのじゃ。かくして心持たぬ混沌の欠片は智慧と意志を得、混沌に近付く者を捕え導く案内者となる―」
舟も、灯りも、忠昭も、そして忠広も。今や其の輪郭を失い、将に混沌の中に還らんとしていた。
「儂は此れにて完全に混沌に帰す。そなたが次なる案内者と変じられ、混沌に仕えなければならぬ―」
忠昭の声が徐々に遠くなり、やがて、消えた。
頚迄を混沌に浸かりながら、忠広は崩壊した心を抱え、混沌と融合して行く己が身を感じていた―。
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