(二)
堂の中は、外見を遥かに越えた異様さであった。
柱にも、床にも、壁にも一面に、文字とも装飾とも絵とも附かぬ線が描かれており、その蠢くような様たるや、吐気を催さんばかりの異様さである。壁の一面には粗末な、書架と思しき物が設けられ、破れた戸から、幾巻かの書物が覗いていた。
『金烏玉兎集』『刹鬼経』『紅く記』『師資捜奇伝』『霊飛十二事』『玄秘経』―。
何れもが得体の知れぬ瘴気を放っている様に思え、忠広は目を逸らした。
堂の柱には所々、堂内に祀られる神仏の名であろうか、歪んだ筆跡で漢字が大きく彫られている。九頭龍大権現、陀言神、倶羅明神、第七暗黒天、誉主都羅言明王、諸蜈守、水蛭子、津聡賀大神、混沌氏……。
黒衣の人物は、堂の中に悠然と立ち尽くしていた。徐に堂の中を見回すと、正面の壁に在る祭壇と思しきものに歩み寄った。
曼荼羅の様な物が懸けられ、呪符と思しき凶々しい図案の描かれた紙片の束が吊るされている。正面の大皿に、供物であろうか、黒焼きの様な大きなものが置かれていた。その形状が赤子に似ていると気付き、忠広は吐気を催した。最早、周囲の異様な雰囲気に呑まれ到底、憤るどころでは無かった。
祭壇には、何れも獣や鬼に似た、悪夢にすら現れぬ様な奇怪な像が幾つか祀られている。取り分け目を惹くのは、一際大きい漆黒の、金とも石とも附かぬ像であった。兎か蝙蝠の如く大きな耳を生やした蟇の様なその像には、蟇に似るにも関わらず毛皮を備える事を示す様に、微細な溝が全体にびっしりと彫り付けてあった。仏尊を愚弄して真似たが如く、薄く開かれた醜悪なその両眼には、堕落、狂気、怠惰、其の他諸々の悪徳が湛えられている様に思えた。
「津聡賀大神じゃ。原初に大地の創られてより地の底の闇を統べる神であらせられる」
黒衣の人物の言の様子は独白とは思え無かった。忠広が追って来たのを既に心得ている事は明らかであった。
咎めようとする間も無く、黒衣の人物は祭壇の下に屈み込み、蜘蛛とも蛇とも附かぬ異形が無数に浮き彫りにされた板に手を掛けた。すると、其の箇所は扉の様に開き、黒い穴がぽっかりと顔を覗かせた。祭壇の下には隠し扉が設けられていたのであった。
穴は人一人が潜り込める程の大きさで、堂の中より尚暗い闇が広がっている。中からは冷気と臭気が漂い、不気味な事に、何物かの声が聞こえて来た様な気すらした。
黒衣の人物は何ら気に留める風も無く、祭壇の下へ瞬く間に姿を消した。忠広は慌てて祭壇へと駆け寄り、奇怪な気配も忘れ、閉じた隠し扉に手を掛けた。
隠し扉は、意外な程に呆気無く開き、闇黒の窖が現れた。内からは妙に生々しい冷気、芬々たる悪臭、そして、幽かながら、明らかに何物かの立てる声が響いて来た。だが、黒衣の人物を追わんとする忠広は、逡巡する事無く、奇怪な抜け穴へと身を滑り込ませた。
外界の景色が消える寸前、誘い込まれたのではないかという考えが、幽かに頭を過ぎった。
穴の内部は入り口より広く、腰を屈めずとも二つの足で歩ける程の高さがあった。扉が閉じたにも関わらず、窖の内部には、朧げながら光が灯っていた。
窖の入り口から数歩もせぬ所に、彼の黒衣の人物が立ち、黒布に覆われた手に燭台を持っている。か細い灯りに照らされるのは、何処まで続くやも知れぬ、円い土の隧道であった。
道は一直線ではなく、腸の如くに折れ曲がり、至る所で枝分かれしている。更に、脇や足許、天井の至る所に、小さな横穴が口を開いていた。
「何を企んでおる。罠の積りか」
黒衣の人物は黙した侭、何も応えなかった。
「此の穴は彼の村人共が掘った邪宗の祭祀所か。壁も床も堅牢な、滑らかな造りだが」
再びの問いに、黒衣の人物は何やら耳障りな、細かい音を発した。其れが笑いを漏らしているのだと、忠広は中々に気付かなかった。
「違う。違いますぞ忠広殿。此の穴は斯様な矮小なものには断じて非ず。大地の腸を網の目の如く抉って何処までも広がり、地の底の國にまで至る地下の迷宮じゃ」
「其の様な通路を一体誰が拵えたと申す」
「土蜘蛛の輩共じゃ」
黒衣の人物の声が、一段と低くなった。
「土蜘蛛については御存知であろう。山野を駆け洞穴に住まい、朝権に因って逐われた辺境の民よ。『日本書紀』に曰く。其のひととなり、身短くして手足長し、侏儒と相類す、と。
元は山野を生活の場とする佐伯、國栖の類であったが、剣もて逐われたものの一部は住まいたる穴の奥へ逃れ、更に穴を掘り下げては暗黒の地の底に暮らしの場を求め幾星霜を経た挙句、穴を穿つ為に手足は伸び、穴を這うに相応しく其の躯は縮み、まこと蜘蛛の如く異形の輩と化したものじゃ」
黒衣の人物の声に交じって、かさかさ、かさかさと云う奇妙な音が、周囲の闇から聞こえて来た。
忠広が見えざる闇の中の音に耳を澄ませている間に、黒衣の人物は、蝋燭を手に、窖をゆっくりと歩き始めた。
忠広は其の後を追った。奇怪な音が、此方へと集うているかの様に思われたからでもあった。
枝分かれした途の先の闇、足許に空いた小穴の奥、はては通り過ぎたばかりの暗がりからも、巨大な蟲が忍び歩くが如き、気味の悪い音が聞こえて来た。
ふと顔を傍らの闇に向けた忠広は、漆の如き闇に橙色の目の数多光るを見て慄然とした。蟲とも獣とも人とも附かぬ丸い目は、底知れぬ憎悪と嫉妬、怨念に満ちて居た。
「構わぬが良い。彼の者共は日の光の下に暮らすもの全てを妬み憎んで居る。したが、儂が居る限り手出しはせぬ」
黒衣の人物は振り向きもせず、独白するかの如くに諭した。其の往く手に、忌わしい迄にひょろ長い、蜘蛛とも猿ともつかぬ毛深い手が、灯りに照らされて、颯と横穴に退くのを目にして、忠広の顔には冷たい汗が浮んだ。
腸の如き路を黙々と歩む黒衣の人物の後を追うに連れ、数多の跫と息遣いが闇に雪崩行くのを、幾度も耳にし、丸い頭と胴を持つ矮小な影が、不釣合いに長い四肢をしゃかしゃかと蠢かせて闇に消えて行くのを、繰り返し目にしながら、延々と続く網目の如き地下道を進んだ。
不意に、土蜘蛛の唸り声とは異なる、甲高い声が響き渡った。忠広が背筋に寒いものを覚えたのは、くぐもった其の声が、人の嘲笑う声に酷似して居たからであった。
灯りの照らす先に目を遣れば、蒼白い、此の世のものとは到底思えぬ顔が、ぎらぎらと目を緑に光らせて浮かんで居た。人とも狗とも知れぬ、長い牙を剥き出した其の顔は、にたにたと下卑た嗤いを浮かべて居た。
「地に潜む魍魎じゃ。浅ましい輩よ」
云って、黒衣の人物が灯りを掲げると、一本の毛も無い灰色の、餓鬼の如く瘠せさらばえた姿が露になった。野狗の如き魍魎は下卑た嗤い声を響かせて居たが、颯颯と横穴の一つに飛び込んで、闇黒に響き渡る哄笑のみを後に残した。
其の後も土蜘蛛や魍魎を退けながら黒衣の人物は進み続け、忠広は其の灯りを導に追い続けた。
空気は澱み、壁や天井に体を押され、忠広は耐え難い息苦しさを感じ始めた。息苦しさの余り、最早、当初の目的を忘れ、惰性のみで灯りを追うているかの様であった。
不意に、周囲を圧していた土の壁と天井が消えた。
空気は濁っては居るものの、広い空間に空気が流れ、忠広は安堵と共に息をついた。
黒衣の人物が灯りを高々と掲げた。細々と光って居た灯りは命を得たが如くに明るく輝きを放った。灯りに照らされた光景に忠広は己が目を疑った。
見渡す限りに巨大な大空洞が広がって居た。数十里は優に在ると思われる地下世界の壁は遥か遠方、闇の彼方に消えて見えぬ。頭上遥か高くに漸く天井が望め、蝙蝠の群れが雲霞の如くに群れ飛んで居るのが微かに見て取れた。
自分達の立つのは崖の上であり、眼下には地上と変わらぬ峰、河、湖が広がり、数多の奇石が樹林の如くに地を飾って居る。人の創り上げたものでは到底あり得なかった。否、此処は人の知る領域ではあり得なかった。
「此処は、何処だ。否、何だ」
余りの異様な光景に、忠広の声は微かに震えた。
「地に沈みし古人の國じゃ。驚かれずとも此の様な地下世界は日の本の地の底だけでも十余は在る。『神道集』に記される、甲賀三郎諏訪の遍歴した地底の國々も其の一部よ」
黒衣の人物は、急な坂道を辿りながら、崖を下り始めた。忠広は、半ば誘われる様にして、足元に気を配りながら、そろそろと其の後を追った。
「人が此の世に生み落とされてより幾万年。其の間には数多の天変地異が地上を襲った。神代に栄えた國々の幾つかは其の煽りで大地に埋もれ深淵に呑まれ、人の目に附かぬ此の暗黒の世界で、ひっそりと眠りに就いておる」
黒衣の人物の申す通り、崖を降りた先には石造りの家々が立ち並んでいた。見慣れぬ造り、町並ながらも、其の堅牢、且つ壮麗な館に忠広は感服を漏らす。十重二十重に階を重ねた高楼。巨大な象牙細工の如くに繊細、壮麗な屋敷の数々。都であろうと、否、唐や天竺の王都であろうとも、此れ程の都とは到底思われぬ。
神を祀る聖所であろうか、鳴兎子の山々に数多在る磐坐に良く似た、巨大な岩積みが時折見受けられた。
「此の地に住んで居た民草はとうに死に絶え、石の廃墟のみが此の暗い地に横たわっておる。命あるもの住んでおるのは、此れより遥か先じゃ」
黒衣の人物は更に歩みを続け、忠広は後に続くのみであった。
峰を越え、河に沿い、奇石の森を抜けた。死に絶えた石の邑を通り、林立する石の柱や磐坐を遠方に望んだ。
道は起伏が激しいものの、総じて下り道が多く、大空洞全体が、更に地下へと傾斜して居るらしいと忠広は見当を附けた。進むに連れて更に地の底へと潜って往く事になろう。
然しながら、一体如何程の刻が過ぎたのかは、最早全く見当が附かぬ。地底の得体の知れぬ妖気に麻痺したか、疲れも飢えも感じる事は無かった。
進むに連れて並ぶ岩や峰は、益々奇怪な形のものになって来た。地から天へと抜ける、塔の如くに巨大な石柱が立ち並び、宛ら巨人の館へ迷い込んだかの様な感を覚えた。泰山の如く巨大ながら、揺らめく焔や茂る樹木の如く、奇々怪々な姿の巨岩が至る所に聳えていた。
散らばる邑々も、世にも不可解な姿となり、無数の岩の絡み合うて形作る巨塔や、丸い巨岩を其の侭に穿ちて拵えた様な家屋が立ち並んでいた。
鬼の邑と云うものが在れば、此の様なものに違い在るまい、と忠広は思った。
其の時であった。傍らに立つ、法螺貝に良く似た巨大な岩の中から、ずるずると音を響かせ、黒い影が這い出て来た。
暗さ故、其の姿をしかと判ずる事は叶わぬが、蜥蜴とも人とも附かぬ其の姿たるや、悪夢の中にすら現れぬ悍ましさであった。何より悍ましいのは、其の巨体の一面に、地獄の火焔の如くに燃える無数の眼であった。其の無数の目の一つ一つに、人と同じく知性の輝きが灯っていたのであった。
其奴は不恰好な、頭と思しき箇所を擡げ、人の声には真似る事すら出来ぬ音を轟かせた。
全身を覆う無数の眼が一斉に、此方を睨み附けた。
幾多の魔界を退き回され、数多の妖異を目の当たりにして来た忠広が、今や魂消るが如き悲鳴を上げた。
黒衣の人物は歩みを止め、振り返って言った。
「怯えられる事は無い。土蜘蛛や魍魎と同様、彼のものも儂に手出しする事は叶わぬ」
「あ、あのものは何なのだ」
恐怖に総身を縛られながら、忠広は漸く其れのみを口にした。
「世界の外、不浄の外界より来たりし古のものじゃ。『朱く記』に記されたる、鳴兎子の最も古き民じゃ」
「た、民と。―あれが。あの様な異形の妖怪が鳴兎子の地に跳梁して居ったと申すのか」
名状し得ぬ彼の妖魔の群れが太陽の下、見慣れた鳴兎子の山河を闊歩する様を思うて、忠広は嫌悪を抑える事が出来なかった。
「人は万物の霊長に非ず。人が現る幾万幾億の昔から天地は在り、其の間には数多の鬼、魔、龍、異人が現れては栄え、消え、現れては消えて行ったものよ」
謡う様に黒衣の人物は語った。
「何と恐るべき妖魅の闇黒界に来たものとお思いであろうが、『玄秘経』に記されし、彼の<崑央>の蒼界に比ぶれば、此の地も安寧其の物と云うべき。聞くだに呪わしき汚穢充ち充ちる冥界が、大地に秘め隠されて人の目に触れぬは、まこと行幸と言わねばなるまい」
語りつつ黒衣の人物が歩み寄るは、巨大なくちなわの抜殻を思わせる岩の回廊であった。怪物の顎の如き門の前には、彼の怪物共が群れを為してのたうって居たが、黒衣の人物が歩み寄るや、醜怪な躯を伸縮させながら闇の中へ消えて行った。
門は見上げんばかりの巨岩に塞がれている。伊弉諾命が、黄泉國より追い来る伊弉冉命を押し留めた千引岩を、忠広は思い浮かべた。
黒衣の人物が何か仕草をしたかと思うと、数百尺は有ろうかと云う岩の扉が、鳴動と共に動き、人一人が漸く通れる程の間隙が生じた。真闇の満ちる奥からは、矢張り饐えた臭いと、寒風の如き冷気が吹き出て来た。
黒衣の人物は灯りを翳しつ隙間へと身を消す。暫し茫然の態であった忠広は、草臥れ果てた身と竦み上がった心を無理矢理に奮い立たせ、其の後を追った。
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